【荏原】北品川宿

町名:北品川宿 一~三丁目

読み方:きたしながわしゅく Kita-Shinagawa-Shuku

区分:町丁→大字

起立:不明

廃止:1932(昭和7)年9月30日

冠称:なし

現町名:北品川一〜六丁目、西品川一〜五丁目

概要:武蔵国荏原郡品川領のうち。幕府領。検地は1695(元禄8)年、1733(享保18)年、1735(享保20)年、1754(宝暦4)年、1761(宝暦11)年。

村高は元禄年間に360石余(元禄郷帳)、天保年間に450石余(天保郷帳)、幕末には451石余で内訳は幕府領447石余、品川神社領1石、清徳寺領4石余(旧高旧領)であった。化政期(1804~1830年)の村の状況は戸数522、うち本陣1、中旅籠屋2。他に自身番屋1、床番屋3、八つ山下海岸の船繋場、板橋2、石橋1、溜井2、名水井1、細川中務少輔之寿、久留島伊予守通嘉、鶴八郎左衛門、狩野伊川院栄信等の抱屋敷、塙次郎忠瑤拝借地、佐々木卯之助炮術稽古場、稲荷社、臨済宗東海寺、同清徳寺、同光厳寺、法華宗本照寺、浄土真宗正徳寺、天台宗養願寺、浄土宗法禅寺、時宗善福寺、大光院、名主兵三郎、村民清三郎旧家等があった。

東海寺は1637(寛永14)年、沢庵宗彭の創立で、拝領地4万7,240坪余、添地588坪、寺領500石。御殿山は長禄年間(1457~1461年)に太田道灌の館があったと伝え、江戸期には将軍家光、小堀遠州、沢庵が茶の湯に興じた風雅の地であったという(新編武蔵)。1837(天保8)年の戸数895・人口3,933(宿明細書上帳)。

慶応4年(明治元年)6月19日(1868年8月7日)又は慶応4年(明治元年)6月29日(1868年8月17日)、武蔵知県事管轄地に所属。明治2年1月13日(1869年2月23日)又は明治2年2月9日(1869年3月21日)、品川県荏原郡に所属。明治4年11月14日(1871年12月25日)又は明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府荏原郡に所属。1872(明治5)年、北品川養願寺門前、北品川正徳寺門前、北品川稲荷門前町、北品川清徳寺門前、北品川東海寺門前を合併(府志料)。同年の戸数782・人口2,924(府志料)。

1889(明治22)年5月1日、当町の一部と品川歩行新宿南品川宿南品川猟師町、利田新地、二日五日市村が合併し、品川町が発足。東京府荏原郡品川町大字北品川宿となる。小字に八ツ山、本宿、裏町、馬場(旧北馬場町)、山ノ下、御殿山、一本木、袖ヶ崎、小関、百反、北三ツ木があった。

1932(昭和7)年10月1日、品川町、大崎町、大井町の3町が合併して東京府東京市品川区が発足。その際に北品川一〜六丁目、西品川一〜五丁目に編入となり消滅。


以下、「品川宿」について詳述する。

「品川宿」は、現・京浜急行の北品川駅から青物横丁駅付近にあった東海道の宿場。中仙道の板橋、日光・奥州道中の千住、甲州道中の内藤新宿と並び、江戸から五街道に入った際の第一番目の宿場「四宿」の1つ。次宿は川崎宿(1623(元和9)年以前は「神奈川宿」)であったため、東海道では唯一御府内の宿場となる(1601(慶長6)年指定)。

当初、目黒川を挟んで「北品川宿」、「南品川宿」の2宿で構成されていたが、1722(享保7)年その北に「品川歩行新宿」が加わり、北側は八ツ山から南は大井村境(「南品川妙国寺門前」と記載された史料もあり)までの、東海道約2kmを中心とした宿場となった。3宿宿内の家は1,600軒・人口7,000という活気ある地だった。また、「北の吉原、南の品川」と言われ、遊興の場所としても有名だった。

撮影場所:北品川宿三丁目

撮影地:品川区北品川二丁目7番(品川本陣跡)

新宿裏町 裏町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。