【南豊島】二十五騎町
町名:二十五騎町
読み方:にじゅうごきまち又はにじゅうごきちょう Nijūgokimachi or Nijūgokichō
区分:俗称→字
起立:江戸期
廃止:1920(大正9)年3月31日
冠称:なし
現町名:新宿区新宿一丁目
概要:1590(天正18)年、徳川家康は江戸入府に際して、すぐに武田氏・北条氏の残党が西部から侵攻することを予想して、内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせた。内藤清成はそのとき、与力二十五騎と同心百人を預けられた。鉄砲隊百人組は、伊賀組・根来組・甲賀組・二十五騎組の4組から構成されていた。内藤清成の鉄砲隊隊は伊賀組。
甲州街道は、もともとは、徳川家康が江戸に入るにあたって、江戸城が攻められた際、親藩である甲府までの避難路として使用することを想定して造営された街道であり、その第一の宿として1698(元禄11)年6月に開かれたのが内藤新宿。
ところで、内藤清成に伴われた鉄砲隊だが、百人組は大久保に屋敷を与えられ(現在の百人町)、二十五騎の与力は、内藤家の屋敷内にその屋敷があった。しかし次第に二十五騎の与力は内藤家の手を離れ、甲州街道の北側(現在の新宿通りの北側)に屋敷が纏められ、江戸期において「二十五騎町」と呼ばれるようになった。
1869(明治2)年、品川県豊島郡の内藤新宿北裏町に編入され、字二十五騎となる。明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府豊島郡に編入される。
1878(明治11)年11月2日、東京府南豊島郡に所属。1889(明治22)年5月1日、内藤新宿町が成立、東京府南豊島郡内藤新宿町大字内藤新宿北裏町字二十五騎となる。1896(明治29)年4月1日、豊多摩郡が成立し、東京府豊多摩郡内藤新宿町大字内藤新宿北裏町字二十五騎となる。
1920(大正9)年4月1日、内藤新宿北裏町は、東京府東京市四谷区に編入され、字二十五騎を包含した部分は大字内藤新宿一丁目とともに新宿一丁目に編入となり消滅。
撮影場所:二十五騎町
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