【南豊島】内藤新宿

町名:内藤新宿 一~三丁目

読み方:ないとうしんじゅく Naitō-Shinjuku

区分:町丁→大字→町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:存続 「新宿」として

冠称:なし

現町名:新宿区新宿一~三丁目、内藤町、四谷四丁目

概要:「内藤」の地名は、1590(天正18)年、関東奉行内藤清成が徳川家康から屋敷地を拝領し、居住したことによる。寛永年間(1624~1645年)以降、「内藤宿」と称したが、後に内藤氏の屋敷地は召し上げられたという。1698(元禄11)年、信濃高遠藩内藤若狭守下屋敷北側に宿駅が開設され、高井戸宿に対し「新宿」と称した。 

1733(享保18)年の『江府名勝志』には「内藤宿大木戸より西方内藤大和守備下屋敷前成、新宿、同所の末に在、江戸より馬次の宿也」と見え、内藤宿に対し「新宿」と唱えたとし、『新編武蔵』には「元内藤氏の屋敷なりしゆえ、其儘内藤新宿と名付」けたとある。宿駅開設以前の当地は萱・葦等の野地であったという。

豊島郡野方領のうち。幕府領。甲州街道第1の宿駅で、江戸四宿の1つ。東は四ツ谷大木戸、西は角筈村、南は玉川上水を隔て内藤大和守下屋敷、北は大久保百人組屋敷、四谷太宗寺門前(町)に接す(新編武蔵)。宿内は東西9町余、南北1町余にわたり、街道に沿って西から東へ内藤新宿上町、内藤新宿仲町、内藤新宿下町の3町に分かれる。 

内藤新宿上町の西側は甲州街道、青梅街道の追分。1698(元禄11)年、浅草阿部川町名主喜兵衛等5名が内藤若狭守下屋敷北側の地に宿駅開設を嘆願。『町方書上』に5名の町人が「御運上金五千六百両相納開発仕」たため、「新規甲州道中継出し駅場に取立」てたとある。1718(享保3)年、一時廃駅となったが、1772(明和9)年に再興され、「明和の立返り駅」と称された(新宿区史)。再興に際し、飯盛女150人、旅籠屋52軒の許可と助郷33か村が指定される(御伝馬方旧記)。継ぎ送り先は江戸、1ヶ月のうち上15日間は下高井戸宿、下15日間は上高井戸宿へ継ぎ送り、品川、千住、板橋の各宿へも継いだ。『宿村大概帳』によれば、常備人馬25人・25匹、うち囲人馬6人・3匹。本陣は内藤新宿仲町1軒。問屋は内藤新宿仲町に1ヶ所。宿高札1ヶ所、家数698軒、旅籠屋24軒、町並み9町10間、人口2,377。

 1793(寛政5)年、荷物の重量を改める貫目改所の設置を願い、1821(文政4)年に甲府柳町とともに認可。1799(寛政11)年、飯盛旅籠屋数、内藤新宿上町20軒、内藤新宿仲町16軒、内藤新宿下町16軒(新宿区史)。他に茶屋、商家も多く、『岡場遊郭考』には「明和安永の頃ハ殊之外盛んなり(中略)陰見世には美服を着し、紅粉の装い恰も吉原におとらぬ春花を置きたり、見世は三人ずつはる事」と見え、品川宿に次いで賑わう。なお、大久保番匠町(?)、千駄ヶ谷村、代々木村、角筈村等に反別2町余の預所があり、「内藤新宿添地」と称し、また宿内の1710(宝永7)年創建になる稲荷社は「子安稲荷」ともいい、寛永年中(1624~1645年)まで一里塚があったという(新編武蔵)。 

前身の内藤新宿下町内藤新宿仲町内藤新宿上町として、明治初年に武蔵知県事管轄地所属。明治2年2月9日(1869年3月21日)、品川県豊島郡に所属。1869(明治2)年、内藤新宿下町が「内藤新宿一丁目」に、内藤新宿仲町が「内藤新宿二丁目」に、内藤新宿上町が「内藤新宿三丁目」にそれぞれ改称。明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数585・人口2,368(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、郡区町村編制法の施行により、豊島郡のうち12町25村の区域をもって南豊島郡が発足。郡役所が内藤新宿二丁目に設置される(1889(明治22)年12月に淀橋町大字柏木291番地に移転)。1881(明治14)年、郡役所を廃止し、二丁目に東多摩郡南豊島連合郡役所を設置。

1889(明治22)年5月1日、市制施行により東京市が発足となり、内藤新宿一丁目、内藤新宿添地町の各一部が東京府東京市四谷区に編入となる。また町制施行により、内藤新宿一丁目の大部分、内藤新宿二・三丁目、内藤新宿北町内藤新宿番衆町内藤新宿北裏町内藤新宿南町内藤新宿添地町の大部分をもって東京府南豊島郡内藤新宿町が発足。大字内藤新宿一~三丁目となる。なお、大字内藤新宿添地町の飛地(現在の西新宿一丁目の一部)は南豊島郡淀橋町大字角筈に編入された。1891(明治24)年3月18日、大字内藤新宿一丁目字大木戸(現在の内藤町)と同じく大字内藤新宿添地町の飛地(現在の四谷四丁目の一部)を東京府東京市四谷区に編入。1896(明治29)年4月1日、東京府南豊島郡及び東多摩郡が合併して豊多摩郡となり、東京府豊多摩郡内藤新宿町大字内藤新宿一~三丁目となる。豊多摩郡役所は淀橋町に設置。1903(明治36)年12月29日、東京市街鉄道(後の東京市電新宿線)が開通。

なお、町丁ではなく、地方自治体としての内藤新宿町は、1906(明治39)年の戸数2,249・人口1万3,938、1915(大正4)年の戸数3,513・人口1万3,679(豊多摩郡村誌)。

1920(大正9)年4月1日、東京府東京市四谷区に編入され、「新宿一~三丁目」と改称。内訳は内藤新宿町大字内藤新宿一丁目と内藤新宿北裏町の各一部が「新宿一丁目」と、もと内藤新宿町大字内藤新宿二丁目と内藤新宿北町の各全域が「新宿二丁目」と、もと内藤新宿町大字内藤新宿三丁目の全域と大字内藤新宿添地町の一部が「新宿三丁目」となった。また一丁目の一部(87番地(水道局のところ))を四谷内藤町に編入した。地方自治体としての内藤新宿町の他の地域は、旭町、三光町、花園町、番衆町に整理される。

1943(昭和18)年7月1日、東京都四谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。住居表示の実施により、1973(昭和48)年には一丁目の一部と花園町が一丁目に、一丁目の一部と二丁目の一部が二丁目に、二丁目の一部と三丁目、角筈一・二丁目の各一部が三丁目になる(四丁目は1947(昭和22)年に旭町全域が新宿四丁目となった)、続いて1978(昭和53)年には二丁目の一部と三丁目の一部、番衆町、三光町、東大久保一丁目の一部が五丁目と歌舞伎町一・二丁目の一部に、東大久保一~三丁目のそれぞれ一部と西大久保一丁目が六丁目に、東大久保二丁目の一部と西大久保二丁目が七丁目に再編された。


前述と重複する部分もあるが、そもそもの「内藤新宿」について以下に詳述する。

内藤新宿は江戸時代に設けられた宿場の1つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、「江戸四宿」と呼ばれた。地名から「四谷新宿」と呼ばれることもある。

1604(慶長9)年、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で1里(約4km)ごとに一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。甲州街道最初の宿場は、1602(慶長7)年に設けられていた高井戸宿であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であった。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかった。このため、日本橋~高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。幕府成立より約100年、江戸の発展に伴い、甲州街道の通行量も増加を続けていた。

1697(元禄10)年、幕府に対し浅草阿部川町の名主であった高松喜兵衛等の5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋~高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。請願を受けた幕府では、代官細井九左衛門や勘定奉行荻原重秀等が審査にあたった。翌年6月、幕府は5,600両の上納を条件に宿場の開設を許可。日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷等が存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。

高松喜兵衛等は新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は「元〆拾人衆」、「内藤新宿御伝馬町年寄」等と呼ばれた。元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、1699(元禄12)年に内藤新宿が開設された。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来する。内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24か所と定められた。なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である。

内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分までの東西約1kmに広がり、西から内藤新宿上町内藤新宿仲町(中町)内藤新宿下町に分けられていた。宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、「喜六」と名を改め、内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り、名主を務めた。開設当初はこの高松家が本陣を経営していたが、後に本陣が存在しない時期もあるなど、火災による焼失や宿場の廃止・再開による混乱もあり、本陣や脇本陣に関しては一定していない。宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。1718(享保3)年には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因の一つという。また、1702(元禄15)年2月と1716(正徳6)年正月には、火災で大きな被害を出している。

1718(享保3)年10月、内藤新宿は幕府によって廃止される。宿場開設より20年足らずでの決定であった。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となった。廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場としての機能は失われた。町そのものは存続したが、賑わいが消え、人口も減少していくことになる。幕府が表向きに廃止の理由として上げたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため不要」というものだった。しかし、この時期は8代将軍・吉宗による享保の改革の最中であった。同じ10月に「江戸十里以内では旅籠屋1軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられている。

1723(享保8)年7月、高松喜六等4名が道中奉行所に宿場の再開を願い出る。宿場廃止に伴う町人の窮乏や、高井戸宿・伝馬町の負担増を理由とし、再開の際には1,100両を上納するとの内容だったが、再開は認められなかった。1735(享保20)年には、逆に幕府側である南町奉行所から日本橋の伝馬町に対し、内藤新宿再開の検討をするようにとの指示が出る。やはり高井戸宿では遠すぎて問題が多かった。しかし実際に伝馬町が提出した再開願いは、1737(元文2)年に吉宗の御側御用取次であった加納久通により却下されてしまう。続いて、内藤新宿の西にあたる角筈村に宿場を新設する案が出る。寛保(1741~1743年)から明和年間(1764~1771年)にかけて数度に渡り開設願いが出されるが、いずれも認められることはなかった。これらの宿場再開・新設願いが却下され続けた理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されたためという。

1772(明和9)年4月、内藤新宿が再開される。50数年ぶりの再開であり、「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。これまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化があった。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたのである。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和と、宿場を補佐する助郷村の増加で対応することになる(後者は伝馬騒動を引き起こして失敗に終わる)。

幕府は「旅籠屋1軒につき飯盛女は2人まで」とした1764(明和元)年の規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。また、10代将軍・家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景にあるとする説もある。それでも宿場が再開されるまでには歳月を要し、最終的には高松喜六(5代目)の請願で許可が下りている。再開に際して飯盛女は宿場全体で150人までとする、年貢とは別に毎年155両を上納する、助郷村は33か所とする等の条件が定められた。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、1808(文化5)年には旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒との記録が残る。江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。現在では「内藤新宿」という地名は残っていないが、「新宿」の名はこの内藤新宿に由来するものである。

撮影場所:内藤新宿一丁目

撮影地:新宿区新宿一丁目10番1号(コメダ珈琲店新宿御苑前店)

代々木町 内藤新宿下町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:市ヶ谷田町下二丁目