【南豊島】内藤新宿六軒町

町名:内藤新宿六軒町

読み方:ないとうしんじゅくろっけんちょう Naitō-Shinjuku-Rokkenchō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1868(慶應4・明治元)年或いは1879(明治12)年9月27日

冠称:「内藤新宿」

現町名:渋谷区千駄ヶ谷五丁目

概要:これは凄い。『角川日本地名大辞典(旧地名編)』によると当町は「内藤宿六軒町(ないとうしゅくろっけんちょう)」として、現・新宿区四谷二丁目のうちに存在していることになる。

まずはそれを引用しよう(西暦添えや点カンマ変換等の編集を加えている)。

“江戸期~1872(明治5)年の町名。町屋起立の時期は不詳。地名の由来は、1697(元禄10)年、内藤丹後守の中間5人と大浜彦右衛門の計6人が内藤丹後守屋敷跡に屋敷跡を拝領したことに因む。近隣の武家地を含め当地付近を俚俗に「新屋敷」とも称した(備考)。文政年間(1818~1830年)の家数12軒、うち家主5・地借1・店借6(町方書上)。慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、四谷伝馬町新一丁目に併合。”

途中まではいい。しかし最後は疑問符が付く。四谷伝馬町新一丁目とは「四谷①」で紹介しているとおりだが、現在の新宿通りの四ツ谷駅と四谷三丁目駅のちょうど中間地点である新宿区立四谷小学校のある町。町域は北西にローソンストア100四谷二丁目店、北東にルネ四谷ビル、南西に新宿区立四谷小学校、そして南東に木村ビル。町名の「新」が入る位置が変わっている理由は「四谷①」で書いたとおりだが、ここと内藤新宿六軒町が合併というのは凄い話だ。

試しに当町があった位置であるTHE PALMS千駄ヶ谷御苑の杜から四谷伝馬町新一丁目のあったローソンストア100四谷二丁目店まで、自動車での最短ルートを紹介すると、一度JRの高架を潜り、千駄ヶ谷駅前を通過し、再びJR高架下を大京町交差点の方へ抜ける。つまり外苑西通りを北上し、四谷四丁目の交差点を右折して新宿通りに入り、津之守坂入口交差点を越えたところ。2.2km、所要時間6分。徒歩だと26分かかる。たしかに飛地は珍しくない。しかし、これは余りにも過ぎる(本所や深川でも遠い飛び地は珍しくはないが)。角川は一体どこと間違っているのか。

ちなみに当町は「内藤新宿」の冠称が付くが、他の内藤新宿各町とは大分離れている。そもそも千駄ヶ谷のうちであり、現在も新宿区ではなく、渋谷区内。『江戸切繪圖』と現代地図を照合させると、六軒町通りの南側に、現在THE PALMS千駄ヶ谷御苑の杜という大型マンション、小径を挟んでイトーハイムというマンションが建つところが内藤新宿六軒町であることが解る。江戸期、千駄ヶ谷は武家屋敷ばかりで構成されたところであり、町屋は飛び飛びにしか存在しなかった。しかしそのうち内藤新宿六軒町という小さな町屋が存在する北側の道が六軒町通りと言われていた(「新屋敷六軒甼」ともいった)。屋敷ばかりであり、それだけ何の特徴もなかったと言えよう。なお現在、六軒町通りの北側にあった武家地は全て新宿御苑内に吸収されている(現・千駄ヶ谷六丁目)。

したがって、内藤新宿六軒町の来歴を正しく書くには、「1868(慶應4・明治元)年、千駄ヶ谷仲町一丁目に編入となり消滅。明治初年時点では既に千駄ヶ谷仲町一丁目に編入されていたと思われる。」と続けなくてはいけないのではないか(?)。

1879(明治12)年9月27日、東京府四谷区に組み込まれず、江戸期の俗称であった名称を小字に起用して、東京府南豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字新屋敷となり消滅。

撮影場所:内藤新宿六軒町

撮影地:渋谷区千駄ヶ谷五丁目1番6号(THE PALMS千駄ヶ谷御苑の杜 新宿御苑千駄ヶ谷門前)

内藤新宿南表町 新屋敷六軒甼

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。