【北豊島】雑司ヶ谷旭出町

町名:雑司ヶ谷旭出町

読み方:ぞうしがやひのでちょう Zōshigaya-Hinodechō

区分:町丁→大字

起立:1872(明治5)年7月

廃止:1966(昭和41)年

冠称:1932(昭和7)年9月30日まで「雑司ヶ谷」

現町名:豊島区東池袋一、四・五丁目、南池袋一・二、四丁目、目白四丁目他

概要:1872(明治5)年7月、江戸期の雑司ヶ谷村のうち、鷹部屋、鷹方御用屋敷、修験屋敷、武家地、寺社地等を合併して、東京府豊島郡雑司ヶ谷旭出町誕生。1872(明治5)年の戸数27・人口109(府志料)。寺院は日蓮宗法明寺、本立寺等があり、他にも寺が多く、戸数27のうち24は僧侶であった。鷹部屋屋敷跡は1万9,000坪で雑司ヶ谷墓地の一部となった。

1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡雑司ヶ谷旭出町となる。現在の雑司が谷一~三丁目と南池袋二、四丁目に位置する土地は小石川区に編入となっている。1889(明治22)年5月1日、東京府北豊島郡高田村、高田千登世町高田若葉町、雑司ヶ谷村、小石川区高田豊川町の一部、雑司ヶ谷町ともに高田村に編入となり、東京府北豊島郡高田村大字雑司ヶ谷旭出となる。1920(大正9)年4月3日、高田村が町制施行して高田町となり、東京府北豊島郡高田町大字雑司ヶ谷旭出となる。

1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市豊島区発足。その際、北豊島郡雑司ヶ谷旭出町は「旭出」を「日出」と漢字表記を替え、北豊島郡雑司ヶ谷村の一部、小石川区雑司ヶ谷町の一部を編入し、大字雑司ヶ谷旭出であった地域は豊島区目白町四丁目、日出町三丁目、雑司ヶ谷町一、五丁目となる(離れ離れの3ヶ所が『東京都區分詳細圖 : 豊島区』で確認できる)。なお、後継の日出町は同日、高田町大字雑司ヶ谷、大字雑司ヶ谷町、大字雑司ヶ谷旭出町が合併して一~三丁目を構成した。

1956(昭和31)年、日出町三丁目の一部が池袋東一丁目に編入。その後1960(昭和35)年までの間に、池袋東は二・三丁目も誕生し、日出町三丁目の一部が池袋東二丁目に編入となる。また1966(昭和41)年には、住居表示の実施により、東池袋一、四・五丁目、南池袋一・二、四丁目に編入となり消滅。

地図によっては山手線の線路よりかなり東方の雑司が谷二丁目12・13、17番辺りにも「旭出町」と書かれているものもある(『東京全図 : 明治十二年』(1879(明治12)年))。『土地概評価. 北豊島郡高田町 大正10年3月調』の「大字雑司ヶ谷旭出町」の項には、「巣鴨監獄の西南(本立寺附近及其の北一帯)及び其南法明寺附近並びに目白駅の西戸田邸附近以西に在り概ね高燥なる住宅地向の地なるも現時尚ほ畑地尠からず(本立寺及北一帯東は本教寺裏の低地より西は池袋駅を距る三丁余の点に至る。法明寺の境内及び其の西の墓地。目白駅の西、戸田邸。同上以西、戸田邸の北側鉄道武蔵野線の両側)」とあるようにかなり広大だったことが判る。

※『角川日本地名大辞典』は読みを「ぞうしがやあさひで」としている。

撮影場所:雑司ヶ谷旭出町

撮影地:豊島区目白四丁目19番11号(豊島区立目白四丁目旭出児童遊園)

雑司ヶ谷本染寺町 御嶽町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。