【北豊島】西ヶ原町
町名:西ヶ原町
読み方:にしがはらちょう Nishigaharachō
区分:百姓町屋
起立:江戸期
廃止:不明
冠称:なし
現町名:北区西ヶ原一丁目
概要:『染井王子巣鴨邊繪圖』には「西ヶ原町百姓丁ヤ」とある。江戸町の北限の1つ。妙義坂を下り、谷田川の霜降橋を渡り、旧古川庭園の辺りが当町。外縁部には町屋となりつつも畑作を続け、百姓町屋(年貢町屋)となるところが多かったが、村から離脱してまで町になる必要があったのかが最大の疑問。あくまでも西ヶ原村のうちであったのか、村から独立したのか詳細は一切不明。明治維新後、暫く町屋のままであったのか、豊島郡(後の北豊島郡)西ヶ原村のうちになったのかさえ不明。
なお、そもそもの「西ヶ原」について以下に詳述する。
隅田川の南岸の武蔵野台地に位置する。地名の由来は、平塚明神のある上中里、中里に対する西の原の意と思われる(北区史)。
[中世]西原 戦国期に見える地名。小田原北条氏の家臣江戸衆の平塚藤右衛門の所領に「二十貫文 江戸平塚内西原」とある(役帳)。この地は江戸期の西ヶ原村の地か。
[近世]西ヶ原村 武蔵国豊島郡岩淵領のうち。『田園簿』の村高は218石余。幕府領の他、山川家領、木村家領、法恩寺領、霊光院領が入り会う。のち、平塚明神領、無量寺領、野間家領が加わり、天保年間(1831~1845年)は485石に増加(天保郷帳)、幕末期に及ぶ(旧高旧領)。村の北の日光御成道に江戸から2里を示す一里塚がある。近辺に将軍遊猟の林地と殿舎があり、「御殿山」と呼ばれた。3代将軍家光の時に設けられたもので、1650(慶安3)年、家光は林羅山に命じてこの地の眺望の景を叙述させている(舟山茶亭記)。用水は仙川分水の下流を引く。化政期(1804~1830年)の家数は70余軒(新編武蔵)。鎮守は七所明神社。新義真言宗の無量寺は江戸近郊の六阿弥陀の1つとして参詣する者が多かった。他に曹洞宗の昌林寺がある。明治元年11月5日(1868年12月18日)又は明治元年11月14日(1871年12月25日)、東京府豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数89・人口437(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。当時の村の状況は「すべて農事に服し、其間商店を開く者15戸」であった(東京府村誌)。1886(明治19)年、新宿から蚕業試験場が移転。1889(明治22)年4月1日、滝野川村の大字となる。
[近代]西ヶ原 1913(大正2)年10月1日からは滝野川町の大字。1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市滝野川区の成立により、西ヶ原町となる。1890(明治23)年、農務局仮試験場事業が創設(農事試験場)、付近に坪井正五郎博士により紹介された西ヶ原貝塚があった。1916(大正5)年、一里塚保存のため、渋沢栄一、野木滝野川町長等の有志が運動を起こし、その結果、一里塚とその周辺地を東京市に寄付して飛鳥山公園の付属地とした。
[近代]西ヶ原町 はじめ滝野川区。1947(昭和22)年3月15日、東京都北区に所属。1953(昭和28)年、東部の地域を除く大部分は西ヶ原一~四丁目となり、一部は栄町となる。1965(昭和40)~1976(昭和51)年にかけて、大部分が現行の西ヶ原一~四丁目となり、残余は中里二丁目となる。
※『角川日本地名大辞典』には「明治5年東京府、同11年北豊島郡に所属」とあるが間違い。
撮影場所:西ヶ原町
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