【北豊島】千住町組小塚原町
町名:千住町組小塚原町
読み方:せんじゅまちぐみこづかはらまち Senjumachigumi-Kozukaharamachi
区分:町丁
起立:元禄年間(1688~1704年)
廃止:1869(明治2)年12月
冠称:「千住町組」
現町名:荒川区南千住五~七丁目(入会地だった地域は除く)
概要:武蔵国豊島郡淵江領のうち。幕府領。奈良時代(710~794年)は武蔵国豊島郡荒墓郷。
奥州・日光両街道の合流点である千住大橋の南詰に街道筋の町場として発展。小塚原村が「千住町組小塚原町」と称するようになったのは元禄期(1688~1704年)に入ってからである(元禄郷帳)。寛文年中(1661~1673年)に千住町組中村町とともに千住宿の加宿となってから(千住掃部宿、千住河原町、千住橋戸町の開発から遅れること2年の1660(万治3)年という説もある)、峡田領でありながら淵江領として取り扱われる。江戸時代中頃には両町は「千住宿南組」と呼ばれるようになり、千住宿は千住大橋南側にまで拡大した。
これ以後、飯盛女を置いた旅籠屋が繁盛し、1702(元禄15)年には吉原(元吉原)から私娼取り締まりの訴状が出されるほどであった(遊女諸事出入書留)。幕末の頃には、小塚原・中村両町の表通りには飯盛旅籠14軒、居酒屋3軒をはじめ、商店130軒ほどが軒を並べて活況を呈し(日光道中街並図)、演芸娯楽場として寄席等もあった(寺門静軒:江戸繁昌記)。下谷通新町から千住大橋に至る街道を「下谷通り」といい、浅草山谷町から千住大橋に至る街道が奥州・日光道であった。水利は石神井用水を使用。千住町組中村町が当町の南方に連接して町並地を形成したので、両町の境界は錯雑となる。化政期(1804~1830年)の家数は259軒(新編武蔵)。鎮守の飛鳥権現、牛頭天王合社境内には松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちの記念碑がある。当町と千住町組中村町は千住宿の一部として伝馬の課役に服し、東叡山領以外の下谷通新町、橋場町地方、金杉村には助郷役が課せられた。なお、千住大橋の向こうは「出口」といった。
他に熊野社、若宮八幡社、稲荷社が勧請されており、寺院では浄土宗誓願寺、日蓮宗日慶寺、曹洞宗円通寺がある。牛頭天王社の近辺に御手洗池があった。小名の小塚原縄手の両側に小塚原刑場があり、間口60間余・奥行30間余。1667(寛文7)年、本所回向院の持地となり、寛保7年(存在しない)には刑死者を弔うために地蔵尊が建立され、俗に「首切地蔵」といわれた。1771(明和8)年、蘭学者杉田玄白、前野良沢等が刑死者の腑分けに立ち会い、『解体新書』を刊行するに至ったことは有名。小塚原火葬場の起源は1669(寛文9)年に乗蓮寺以下19寺が火葬寺として建立されたことによる。ただ、「千住町組小塚原町」というと、火葬寺(小塚原回向院)ばかりが有名だが、町名の由来は円通寺にあった。源義家(八幡太郎)が奥州鎮定の後、討ち取った48首を寺域に埋め、塚を築いて葬ったという。その塚が円通寺内にあったとされ、「小塚原」という広域地名となったようだ。なお、小塚原刑場は線路に挟まれた延命寺(荒川区南千住二丁目34番5号)で、千住町組小塚原町町域とは離れている。「小塚原」は当初、広域地名であったのだろう。
武家屋敷は、化政期(1804~1830年)には寄合池田徹之助、石川日向守、大関美作守の抱屋敷が置かれた。
1868年8月27日(慶応4年7月10日)、当地域は武蔵知県事管轄地となる。同年12月18日(明治元年11月5日)、当町と千住町組中村町を除く地域が、東京府豊島郡に編入される。1869年2月15日(明治2年1月13日)、千住町組中村町とともに新設の小菅県に編入となる。
1869(明治2)年12月、千住町組中村町と合併し、「千住南組」と改称し消滅。ただし、『東京區分明細圖』(1878(明治11)年)にはしっかりと記載されている…。なお、明治4年12月28日(明治4年11月17日)、小菅県は品川県とともに東京府に編入となり、後身の千住南組も“小菅口”として編入された。 東京府北豊島郡南千住町に所属。
※冠称は荒川区教育委員会が設置している『あらかわの史跡・文化財 下谷通新町』に「千住小塚原町」とあったので、「千住」として掲載していたが、『角川日本地名大辞典』に「千住町組」とあるので訂正した。
なお、そもそもの「小塚原」について以下に詳述する。
「こづかっぱら」ともいい、「古塚原」(新編武蔵)、「骨ヶ原」(蘭学事始)とも書く。隅田川南岸の低地に位置する。地名の由来は、この地の鎮守の飛鳥明神社境内に大己貴命と事代主命の両神翁出現の際に瑞光を発したと伝える石があり、この小塚によるという説がある(砂子、江戸名所)。
[中世]小塚原 室町期(1336~1573年)に見える村名。武蔵国豊島郡に属す。1448(文安5)年11月の『熊野領豊島年貢目録』に「三貫三百 小塚原鏡円」と檀那名として見える(熊野那智大社文書/米良文書)。
[近世]小塚原村 江戸期の村名。武蔵国豊島郡峡田領のうち。幕府領。検地は1615(元和元)年、1697(元禄10)年等。家康の関東入国の際、今村勝長に小塚原に知行地を宛てがったと見え(今村家譜)、同正信に対し、1625(寛永2)年9月2日、徳川秀忠は70石を宛てがっている(記録御用所)。『田園簿』の村高は375石余で、田250石余・畑106石余。元禄年間(1688~1704年)には「小塚原町」となった。
撮影場所:千住町組小塚原町
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