【北豊島】下谷通新町

町名:下谷通新町

読み方:したやとおりしんまち Shitaya-Tōri-Shimmachi

区分:町丁→大字

起立:江戸期

廃止:1929(昭和4)年

冠称:「下谷」

現町名:荒川区南千住一丁目

概要:1661(寛文元)年の割付には「小塚原新町」とあり、1695(元禄8)年か1696(元禄9)年の割付には「下谷通新町」とあるが、その年度は必ずしも明らかではない(備考)。はじめ千住町組小塚原町の一部であったが、起立年代は1661(寛文元)年以前に分離して「小塚原新町」と称したとのこと。町名の由来は、千住町組小塚原町続きの意で付され、奥州道裏道沿いの地なので小塚原を「通」と改めたように見做せる。

切絵図では通りの左右に7ヶ所ある。町内は東西45間ほど(約81m)、南北6町余(約654m)。王子用水に通新町橋が架かる。支配は町方と代官と両方。化政期(1804~1830年)の家数は440軒。助郷は千住宿に出役。町の後ろに火葬寺、浄閑寺、公春院、西光寺、真養寺等がある。町内南橋際に高札場があった(備考)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数495・人口2,149(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1879(明治12)年、下谷真正寺町を合併。1889(明治22)年4月1日、東京府北豊島郡南千住町に編入となり、南千住町大字元下谷字通新となる。

1928(昭和3)~1929(昭和4)年、南千住町の大字千住南、大字三ノ輪、大字千束、大字三河島、大字地方橋場、大字下谷三ノ輪、大字通新を合併整理し、南千住一~十丁目とする。当町は南千住町六丁目に編入となり消滅。現行の南千住一丁目。

撮影場所:下谷通新町

撮影地:荒川区南千住一丁目15番6号(梅沢写真会館)

下谷三之輪町 小塚原新町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。