【北豊島】千住中村町

町名:千住中村町

読み方:せんじゅなかむらまち Senju-Nakamuramachi

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1869(明治2)年12月

冠称:「千住」

現町名:荒川区南千住五、七丁目(入会地だった地域は除く)

概要:武蔵国足立郡淵江領のうち。幕府領。千住大橋の南詰の奥州街道沿いに発達した町。千住小塚原町とともに千住宿に属し、『田園簿』では「中村」とあり、『元禄郷帳』では「千住町組中村町」と称する。本来は豊島郡峡田領に属していたが、1661(寛文元)年、千住小塚原町とともに千住宿に加宿してから足立郡淵江領として取り扱われる。2町は「千住宿南組」と呼ばれるようになり、千住宿は千住大橋南側にまで拡大した。千住小塚原町の南方に町並地を形成し、両町の境界は複雑で、区分が困難なほどであった。

村高は『田園簿』で112石余。田102石余・畑9石余。元禄期(1688~1704年)以降は81石余に減少(元禄郷帳、天保郷帳)。名主は寛文年間(1661~1673年)からは田中氏が世襲。番屋が1ヶ所あった。化政期(1804~1830年)の家数は73軒(新編武蔵)。橋場町山王社地の飛地があり、「山王門前」と唱え、寺社奉行の支配地。水利は石神井用水を使用。東方に荒川(現・隅田川)の水除堤があり、「砂原堤」又は「汐入堤」ともいった。日光街道の縄手入口から千住小塚原町まで562間(切絵図)、千住宿の下宿として飯盛旅籠屋が並び、茶屋町を形成。寺院には日蓮宗日慶寺、同真養寺、浄土宗西光寺があった。当町と千住小塚原町は千住宿の一部として伝馬の課役に服し、東叡山領以外の下谷通新町、橋場町地方、金杉村には助郷役が課せられた。

1868年8月27日(慶応4年7月10日)、当地域は武蔵知県事管轄地となる。同年12月18日(明治元年11月5日)、当町と千住小塚原町を除く地域が、東京府豊島郡に編入される。1869年2月15日(明治2年1月13日)、千住小塚原町とともに新設の小菅県に編入となる。

1869(明治2)年12月、千住小塚原町と合併し、「千住南組」と改称し消滅。なお、明治4年12月28日(明治4年11月17日)、小菅県は品川県とともに東京府に編入となり、後身の千住南組も“小菅口”として編入された。東京府北豊島郡南千住町に所属。

撮影場所:千住中村町

撮影地:荒川区南千住七丁目17番1号(丸八線材)

千住小塚原町 南千住原宿町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿