【神田②】神田徳右衛門町
町名:神田徳右衛門町
読み方:かんだとくえもんちょう Kanda-Tokuemonchō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1661(寛文元)年
冠称:「神田」
後身:柳原河岸
現町名:千代田区岩本町三丁目
概要:江戸初期、柳原土手、和泉橋際にあった町。1661(寛文元)年に火除地となり、本所に本所柳原町一~六丁目、神田に神田元柳原六丁目として代地が与えられる。
元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が三河岡崎にいた頃、河村家の氏神様として名匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まり。徳川家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町名を「神田徳右衛門町」と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。二代目・徳右衛門の妻女が、難性の腫物を患い、稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。
1657(明暦3)年の「振り袖火事」により、幕府は火災に強い町造りを進め、このニュータウン計画により河村家は本所(現・立川三丁目付近)に移封され、この処を「本所徳右衛門町」と称して、稲荷神社も移祀した。しかし、その後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。邸内にあった時は「正一位稲荷大明神」と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に「元徳稲荷神社(元徳右衛門邸内にあったお稲荷さんの意)」と改称した。近在に飛火という腫物の病が大流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九代目・市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている(元徳稲荷神社総代会)。本所徳右衛門町も参照のこと。
撮影場所:神田徳右衛門町
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