【赤坂②】食傷町

町名:食傷町

読み方:しょくしょうちょう Shokushōchō

区分:俗称

起立:江戸期

廃止:不明

冠称:なし

現町名:港区赤坂二丁目7番辺り

概要:江戸期の赤坂溜池端芝永井町代地の俗称。地名起源は詳らかでない(画報)が、町の西部に「食傷町」と呼ばれた所があって、飲食物を商う者が多く住んでいたこともあったという(赤坂区史)。森無黄「桐畑の所はあいまいの家が多く、風呂屋に湯女がいた」、吉田勘右衛門「田町五丁目は岡場所といった。吉原が焼けて仮宅が許された」、篠田鉱造「桐畑は食傷町であって、色町であった。ひそかに客をとる場所であった」、森無黄「天保13年に取り払いが行なわれた」(座談会「赤坂区史」)。現行の赤坂二丁目7番辺り。

撮影場所:食傷町

撮影地:港区赤坂二丁目7番1号(赤坂はらだ)

中田町 フクロ丁


参考:赤坂溜池端芝永井町代地

概要:江戸期~1869(明治2)年の町名。芝永井町の代地の1つ。芝永井町の一部が1787(天明7)年に赤羽植木溜に代地を受け、残りの一部が1811(文化8)年2月の類焼後に増上寺火除地となり、同年5月に溜池端桐畑の空地に代地を与えられた。1827(文政10)年の家数14軒、うち家守3・地借10・店借1(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、赤坂田町六丁目に編入となり消滅。現行の赤坂二丁目8番の辺り。

撮影地:港区赤坂二丁目8番13号(赤坂こうゆうビル ターキッシュキッチン)

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。