【赤坂①002】赤坂田町

町番号:赤坂①002

町名:赤坂田町 一~七丁目

読み方:あかさかたまち Akasaka-Tamachi

区分:町丁

起立:1638(寛永15)年

廃止:1966(昭和41)年6月30日

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「赤坂」

現町名:港区赤坂一~三丁目

概要:溜池に沿い、南北に湾曲しながら発展した町で、田畑が発展したため町名となる。江戸期には一~五丁目があった。1635(寛永12)年頃、赤坂門や堀の普請の際の土置場となっていたが、家康の関東入国以来の功で南伝馬町の御馬役に大縄地として支給され、1638(寛永15)年に地割して一~三丁目を町屋とした。

町名は田地の低地だったことによる。四・五丁目は正保年間(1645~1648年)から次第に町屋敷が立てられ、1ヶ月に伝馬4頭ずつ務める規定で赤坂近辺の希望者に地所を渡し、また一~三丁目の家持で維持しかねる者で伝馬2頭の助役を務める希望者に地所を譲って沽券町屋を起立。1828(文政11)年の家数392軒、うち家持14・家主33・家守9・地借105・店借231。一・二丁目には「高藪横町」、二・三丁目には「岡室横町」の俗称があった。1635(寛永12)年、付近に移転した浄土真宗不動山成満寺には時の鐘があり、三丁目には寛文年間(1661~1672年)以来、赤坂鍔で有名な鍔職人が住んでいた。町の西部は飲食物を商う者が多かったので「食傷町」と俗称した。幕末の一時期、勝海舟が居住していた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、芝田町四丁目代地、赤坂溜池端の芝霊屋掃除屋敷代地、赤坂溜池端芝永井町代地、赤坂溜池端芝青龍寺門前町代地を合併。さらに1872(明治5)年、幕臣邸地を合併し一~七丁目に改めた。同年の戸数430・人口1,841、物産は腹掛、股引、足袋、簞笥、箱火鉢、机、本箱・テーブル、椅子、長靴、ゴム靴、傘、簾、葭簀、金箔、竹櫛、蝙蝠傘(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1888(明治21)年、五~七丁目の一部が赤坂溜池町の一部となる。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。明治末には理髪店、牛乳店、写真館、薬品医療機械店、印刷所等があり、文明開化的な様相を呈していた。二~六丁目は花街を形成し、林家、田島家、松の屋等多数の芸妓屋、待合茶屋があった。当町の芸妓は赤坂芸者と称された。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。花柳界は政財界の客種を得て復活する一方、東北部は自動車関係商が集中し、都心的繁華街となり、レストラン、キャバレー、ナイトクラブ等の独特の街況を見せるようになった。

1966(昭和41)年7月1日、住居表示の実施により、現行の赤坂一~三丁目に編入となり消滅。

撮影場所:赤坂田町七丁目

撮影地:港区赤坂二丁目10番8号(都営バス溜池停留所)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。