【赤坂②】青山六軒町
町名:青山六軒町
読み方:あおやまろっけんちょう Aoyama-Rokkenchō
区分:町丁
起立:1683(天和3)年
廃止:1869(明治2)年
冠称:「青山」
後身:青山大和町
現町名:港区南青山一丁目4番13号(13号は現在ない)及び13号先の道路敷と南青山二丁目7番の東北の一画
概要:概要:1872(明治2)年に起立する、六道の辻付近にあった同名の地(青山六軒町)とは別物。
江戸時代の初期には篠山藩青山家の邸地だったが、1683(天和3)年、もと本所南横堀町(現在の墨田区立川四丁目)の拝領町屋敷が幕府用地に召し上げられ、紅葉山御霊屋付御掃除の者6名が青山播磨守上げ屋敷のうちに代地を与えられ、町名を「青山六軒町」と唱えた。本所に屋敷地があった1630(寛永7)年からの町屋と伝えられる。2ヶ所に分かれていた。『大江戸今昔めぐり』によると、一丁目側の現在は南青山一丁目4番3号西側、港区立青葉公園北部L字内側、5号西側、7号東側辺りとなっている。また、二丁目側も6・7番の間の道に「六軒町」とある。1827(文政10)年の総家数19軒・うち地主3・地借1・店借15(町方書上)。町奉行支配になったのは1630(寛永7)年(町方書上)。町内青山大膳亮の屋敷寄りに「山岸」の俗称があった(備考)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、青山手大工町と合併して青山大和町に編入となり消滅。
なお、1872(明治5)年に起立する、六道の辻付近にあった青山六軒町について『角川日本地名大辞典』は、「明治期以後の諸書がこの町を権田原付近にあったとするのは『沿革図書』及び『備考』の精密な検討によって誤りとされる。尾張屋版切絵図『千駄谷鮫ケ橋四谷絵図』の六道の辻東北の道路敷に「此ノヘン六ケン丁と云」とある俗称地名を混同したものか」とある。
撮影場所:青山六軒町
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