【浅草②】浅草植木町

町名:浅草植木町

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1869(明治2)年

冠称:「浅草」

後身:浅草三好町

現町名:台東区蔵前二丁目17番

概要:『東京案内』によると浅草三好町の項で「明治3年旧正覚寺門前即ち植木町を本町に合せり」とあるが、これはまず江戸通りを挟んで南北に向かい合う浅草三好町浅草黒船町とを混同していることでのミス。また『年代』には「明治4年2月版町鑑に植木町を合併した」とあるそうだ。「植木」と「榧木」の単なる漢字の読み間違いから犯したミスか。

浅草黒船町は維新後町域を拡げる際、正覚寺(通称・榧寺)の北にあった浅草高麗町と南にあった浅草榧木町等を併合した。また、浅草三好町も同様に江戸時代は御用地であった土地(維新後は官地)を併合した。それが浅草植木町なのである。

「浅草の賑わい」というサイトには浅草植木町の広さが470坪とあった。坪数しか書いていなかったので場所の特定はできなかったが、浅草三好町は現行の蔵前二丁目15~18番付近という狭い町だった。その中に浅草植木町という町があったことは確かだ。しかし拡張後の浅草三好町にはもともと浅草三好町町域であった部分と官地、それ以外に浅草植木町であっただろう470坪の余裕はない。

と、考えると官地であった部分がほんの少しの間だけ浅草植木町と名乗ったのではないかと考え、グーグルマップの上に線で範囲を設定すると坪数を割り出すという便利なサイトを使い、官地のあった台東区蔵前二丁目17番4号にあるJFE蔵前ビルの坪数を測定してみると約500坪であり、それだけでも浅草三好町の面積の半分弱を使ってしまっている。

つまりもともと浅草三好町だった所と官地、それ以外に740坪の浅草植木町が存在していたという事実はなかった。つまり、江戸期には御用地であったが維新を迎えて官地となった場所がほんの数ヶ月ほど浅草植木町を名乗っていたというのが自然である。その浅草榧木町と浅草植木町は江戸通りを挟んで向かい合っているので漢字も似ているため、勘違いしたのだろうか。

その浅草植木町は、1869(明治2)年、官地から起立したが、同年中に浅草三好町に編入となり消滅。

撮影場所:浅草植木町

撮影地:台東区蔵前二丁目17番4号(JFE蔵前ビル JFEシステムズ鉄鋼関連事業部)

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:本所長崎町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。