【浅草②】浅草植木町

町名:浅草植木町

読み方:あさくさうえきちょう Asakusa-Uekichō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1869(明治2)年

冠称:「浅草」

後身:浅草三好町

現町名:台東区蔵前二丁目17番

概要:1869(明治2)年4月版の『町鏡』にも当町の町名があり、1871(明治4)年版『東京大絵図』にも「ウヱキ丁」とあるが、1869(明治2)年6月版『町鏡』は浅草三好町に合併したと明記しているから、1869(明治2)年に起立し、年内中に消滅したものであろう。現行の蔵前三丁目の北部、国道6号沿いの一画。

『嘉永江戸図』には「御用地」とあり、1865(慶応元)年版『町鏡』に浅草三好町に西接して「三好町続御植物地」とある一画である。『備考』には、1724(享保9)年に火除地470坪が浅草三好町にお預けになり、後に1744(延享元)年、藍草請負人の栽培地に、1794(寛政6)年には楮植付場に、さらに1801(享和元)年には桐苗を植えたとあるから、植木町という町名が付けられたと考えられる。

なお、『東京案内』によると浅草三好町の項で「明治3年旧正覚寺門前即ち植木町を本町に合せり」とあるが、これは現・江戸通りを挟んで南北に向かい合う浅草三好町浅草黒船町とを混同している。また『年代』には「明治4年2月版町鑑に植木町を合併した」とあるそうだ。「植木」と「榧木」の単なる漢字の読み間違いから犯したミスか。

維新後、浅草黒船町は町域を拡げる際に、正覚寺(通称・榧寺)の北にあった浅草高麗町と南にあった浅草榧木町等を併合した。また、浅草三好町も同様に上述のとおり、江戸時代は御用地であった土地(維新後は官地)を併合した。それが浅草植木町なのである。

なお、『浅草の賑わい』というサイトには浅草植木町の広さは470坪とあった。坪数しか書いていなかったのでそれで場所の特定はできないが、明治期以降の浅草三好町(1869(明治2)年~1934(昭和9)年)は現行の蔵前二丁目15~18番付近という狭い町だった。拡張後の浅草三好町には、江戸期より浅草三好町町域であった部分と官地で構成されており、それ以外に浅草植木町であっただろう470坪の余裕はない。と、考えると、官地であった部分がほんの少しの間だけ「浅草植木町」と名乗ったのではないかと考えられる。

グーグルマップの上に線で範囲を設定すると坪数を割り出すという便利なサイトを使用し、官地のあった台東区蔵前二丁目17番4号にあるJFE蔵前ビルの坪数を測定してみると約500坪であり、それだけでも明治期以降の浅草三好町の面積の半分弱を使ってしまっている。

つまり江戸期より浅草三好町だった所と官地、それ以外に740坪の浅草植木町が存在していたという事実はなく、江戸期には御用地(御勘定所持植物場)であったが、維新を迎えて官地となった場所がほんの僅かな期間だけ「浅草植木町」を名乗っていたと考えられる。由来も江戸期に植物場であったことから「植木」と名付けられたのだろうと容易に推測できる。『東京案内』と『年代』は、浅草榧木町と浅草植木町が江戸通りを挟んで向かい合っており、漢字も似ているため、勘違いしたのだろうか。

その浅草植木町は、1869(明治2)年に官地から起立したが、同年中に浅草三好町に編入となり消滅したということになる。

撮影場所:浅草植木町

撮影地:台東区蔵前二丁目17番4号(JFE蔵前ビル ファミリーマート蔵前店)

舟首町 浅草高麗町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。