【南葛飾】小ナキ丁

町名:小ナキ丁

読み方:おなぎちょう又はおなぎまち Onagichō or Onagimachi

区分:俗称か

起立:江戸期

廃止:1915(大正4)年8月30日

冠称:不明

現町名:江東区大島三丁目

概要:『分間江戸大絵図』(天保8 [1837])にあり。漢字では「小名木町」と書くと思われる。

はじめ大島村の大字小名木で、1900(明治33)年7月19日からは「大島町大字小名木」となる。正式に「町」となったことはないので、「小ナキ丁」とは、「小名木村の町屋」という意味であろう。大字小名木は、1915(大正4)年8月31日、大島町大字三、五、八丁目の一部に編入となり消滅(小字は全廃)。距離があるが、「小名木」の名は川名に残る。


以下、「小名木」について詳述する。

[小名木] 荒川の西岸、小名木川の北に位置する。地名の由来は開発者小名木四郎兵衛による(新編武蔵)。

[小名木川] 江東区北部を流れる川。区東部の東砂二丁目と区西部の清澄一丁目間を東西に横断、旧中川と隅田川を結ぶ。旧中川口は東砂二丁目・大島九丁目境の番所橋、隅田川口は清澄一丁目・常盤一丁目境の万年橋で結ばれる。別称は「うなぎ沢」、「うなぎさや堀」、「うなぎ川」。名称の由来は、小名木四郎兵衛が開鑿を担当したからとする説、古くは「女木山谷(おなぎや)」と称し、それが「小名木沢」、さらに「小名木川」に転じたとする説等がある。延長4.64km。徳川家康が行徳の塩の搬入路として天正末年~慶長年間(1596~1615年)に開鑿。この運河と同時期に開鑿された新川を経て江戸川と通じ、利根川水運の江戸出入路となった。これにより気象条件等による安全性を増し、安定した輸送路が確保するという軍事的目的が達成された。最初は隅田川口に、後には旧中川口に船番所が置かれた。明治期以降沿革には舟運を利用して、醤油製造をはじめとする大小の工場が建設され、江東地区の工業発展のためにも大きな役割を果たしてきた。『府志料』には伝馬船54隻、肥船32隻、茶船27隻等、多くの舟があげられており、万年橋の他、高橋、治久橋、銚子塚橋等があげられている。なお江戸期に農業肥料として用いられた干鰯の荷揚場が沿岸の深川海辺新田にあり、現在のその跡に干鰯場跡の碑(白河一丁目)が立つ。

[近世]小名木村 葛飾郡西葛西領のうち、幕府領。天正年間(1573~1592年)、小名木四郎兵衛が開発。小名木四郎兵衛がは慶長年中(1596~1615年)に中川と隅田川を結ぶ小名木川を開鑿したと伝えられる(新編武蔵)。検地は1697(元禄10)年。村高は126石余(元禄郷帳)。天保期(1831~1845年)の村高は160石余で、幕末まで変化はない(天保郷帳、旧高旧領)。竪川南岸をはじめ、飛地が3ヶ所あった。化政期(1804~1830年)の家数は28軒(新編武蔵)。小名木川北岸を「行徳道」といった(新編武蔵)。村内には鎮守の稲荷社、新義真言宗稲荷山宝塔寺があり、東方に「中川の渡し」といわれる渡船場があった。小名木川が中川へ合流する地点の北岸に万年橋際から中川番町が寛文年間(1661~1673年)に移転。船舶の取締、検問を行った(新編武蔵)。1869(明治元)年、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数26・人口158(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府南葛飾郡に所属。1889(明治22)年5月1日、大島町の大字となる。

撮影場所:小ナキ丁

撮影地:江東区大島三丁目7番8号(VIVIENDA瀧澤 おかもとパン研究所)

深川下大島町 横町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。