【南葛飾】深川下大島町

町名:深川下大島町

読み方:ふかがわしもおおじまちょう Fukagawa-Shimo-Ōjimachō

区分:町丁→大字

起立:1657(明暦3)年

廃止:1915(大正4)年8月30日

冠称:1889(明治22)年4月30日まで「深川」

現町名:江東区大島四丁目

概要:葛飾郡西葛西領のうち。もとは大島村のうち。正保年間(1644年~1647年)頃に、海岸の低湿地を開発して村が作られ、『元禄図』に初めてその名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名が付けられたとされる。なお、「大島」の読みについては、1847(弘化4)年改版の『江戸町鑑』に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調されている。これは深川猟師町の1つであった深川大島町と区別し、ここを「大ジマ」と呼んだと推定されている。その後1965(昭和40)年の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むように正式に決められた。

1657(明暦3)年、小名木川沿岸の百姓によって百姓商売屋が設けられた。宝永年間(1704~1711年)に、永代売買・家作免許となり。1706(宝永3)年から、町奉行・代官両支配となり、深川上大島町と深川下大島町が起立(1713(正徳3)年、町奉行と代官の両支配地となったという説もあり)。町名は当町の居住者が、大島村下分であったことによる。検地は1697(元禄10)年、反別は4町9反余(備考)。化政期(1804~1830年)の家数137軒(町方書上)。小名木川の渡しを渡し守の名前から俗に「次兵衛渡し」といった。大島村及び当町には醤油醸造業の蔵が並んでいた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、隣接する武家地を合併。1872(明治5)年の戸数100・人口410、物産に醤油、味噌、駒下駄があった(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、市制町村制施行が施行された際に横十間川以西が東京府東京市、以東が東京府南葛飾郡とされ、南葛飾郡内の各村も合併・再編された(「明治の大合併」)。それまでの東京府南葛飾郡大島村と東京府東京市深川区深川上大島町は、横十間川を境に以東は新制の大島村に、以西は東京市深川区にそれぞれ編入された。東京府東京市深川区深川下大島町は新制・大島村に編入され、南葛飾郡大島村大字下大島町となった。

それ以外の新制・大島村を構成する地は、小名木村、平方村、六間堀出村、中之郷出村の各全域、深川出村、南本所出村、北本所出村、(旧)大島村の各大部分(飛地除く)、(旧)亀戸村、猿江村、深川本村の各一部に、小梅村飛地、須崎村飛地等を加えた地域。南本所出村、北本所出村、中之郷出村の各村の本村(南北本所は町)と小梅村と須崎村はその大部分が現在の墨田区のうちである。上述の旧村・旧町が新制・大島村の大字名に引き継がれ、15大字を構成した。

また、東京府東京市深川区に編入された区域は、深川上大島町と大島村字曽根(暫定的に深川区の「村」として残っていた)があったが、1891(明治24)年に東京府南葛飾郡大島村字曽根が深川猿江裏町に編入された。現在の東京都江東区猿江(深川上大島町)、住吉(大島村)にあたる。

大島村は1900(明治33)年7月19日に町制を施行して東京府南葛飾郡大島町となる。1915(大正4)年8月31日に上述の15大字を廃して大字一~八丁目が成立したことで消滅(小字は全廃)。

なお、この新しい大字が昭和7年(1932年)10月1日の東京府東京市城東区成立時にそのまま大島町一~八丁目となり、町名・町域として引き継がれ、1965(昭和40)年1月1日の住居表示実施まで存続した。なお、深川下大島町は大島町四丁目の町域にあたる。

※『角川日本地名大辞典』には「大正4年大島町1・4~5丁目となる。現行の大島1・4~5丁目のうち」とあるが間違い。

撮影場所:深川下大島町

撮影地:江東区大島四丁目1番23号(江東区立大島西中学校)

なべや町 小ナキ丁

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。