南足立
富嶽三十六景「武州千住」
■南足立…「足立」とは、万葉仮名では「阿太知」と書いていたが、諸国郡郷名著好字令によって現在のものとなったとみられる。日本武尊(坂上田村麻呂という説も)が立てるようになったという伝説や「葦立ち」から転じたとする説もある。
足立郡郡域は埼玉県鴻巣市から東京都足立区まで。荒川の東、元荒川と綾瀬川の西。郡衙は埼玉県さいたま市にある大久保領家遺跡又は氷川神社東遺跡にあったのではないかといわれている。
以下、このサイトに関係しそうな地域だけ詳細を書くことにする。
1869(明治2)年1月13日(新暦2月23日)、小菅県に所属。千住一〜五丁目が「千住宿北組」、掃部宿、河原町、橋戸町が「千住宿中組」と改称。明治4年11月28日(1872年1月8日)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止され、(新)東京府設置。足立郡のうち小菅県管轄だった部分は東京府足立郡に編入。1878(明治11)年11月2日、足立郡のうち、東京府に属する地域に南足立郡が発足。千住宿北組が千住北組、千住宿中組が千住中組と改称。翌1879(明治12)年3月17日には残部が北足立郡となり、これにより足立郡は消滅。1889(明治22)年5月1日、市制町村制の施行によって、千住北組と千住中組の2町、それに本木村、興野村、西新井村、島根村、栗原村、小右衛門新田の各一部が合併し、千住町が発足。1931(昭和6)年1月1日、従来の大字・小字を改廃、本町一~五丁目他計27大字が設置される。以前から日光街道沿いの中心地以外は各大字の入会地であり、大変複雑であったのだがそれを改めた。
1932(昭和7)年10月1日、 千住町、西新井町、梅島町、舎人村、渕江村、東渕江村、伊興村、江北村、綾瀬村、花畑村とともに東京市へ編入され、足立区発足。千住町の大字は本町一~五丁目が「千住一~五丁目」に、その他は「千住」を冠した町名となる。1934(昭和9)年6月1日、向島区隅田町二丁目の旧綾瀬川以北と足立区千住曙町の旧綾瀬川以南を交換。なお、町域変更協議は東京市編入以前から両町によって進められていた。
このサイトは江戸の町々を紹介するものなので、千住大橋北側は掲載しない。ただ、朱引内に南足立の町が1つだけ存在した。それは現在の墨田区堤通二丁目の北部である。上述にあるとおり、この地は1934(昭和9)年5月31日まで足立区千住曙町の飛地だったのである。したがって、南足立はその地域に限って掲載することにした。
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