【神田①016】神田佐久間町

町番号:神田①016

町名:神田佐久間町 一~四丁目

読み方:かんださくまちょう Kanda-Sakumachō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」

現町名:千代田区外神田一丁目、神田佐久間町一~四丁目

概要:神田川北岸、筋違橋と新シ橋(現・美倉橋)の間に位置する。本材木町の材木商人が延宝年間(1673~1681年)に起立したと伝え、材木商佐久間平八の姓に由来するというが、未詳(府志料・備考)。古くから幕府に仕えた町ということで、将軍家に祝い事があるときは町人たちにも能の見学が許されていたという。

1718(享保3)年、火災跡の一部が火除地に定められた際、住民は元誓願寺前(現・神田東松下町周辺)へ移転を命じられる。しかし、仕事柄、河岸から離れることはできず、奉行所に対し「焚火をしない、建物間の密集はさせない」という条件付きで火除地の一部使用許可を得ることができた。

享保年間(1716~1735年)以前の江戸図では神田川沿いに西から一~四丁目が整然と並んでいるが、1727(享保12)年の大火以降は麹町平河町の代地(後の神田平河町)等や武家地が入り組み、一~三丁目、四丁目元地、四丁目残地、四丁目裏地(神田佐久間町四丁目裏町)、四丁目横丁の7か町が散在する形となった。一丁目は材木商が集住したために「神田材木町」とも俗称された(二丁目も材木・薪炭商が多かった)。四丁目横丁の東には1744(延享元)年から1753(宝暦3)年まで天文台が置かれ、1765(明和2)年には幕府奥医師・多紀元孝が学校躋寿館(1791(寛政3)年、「医学館」と改称)を創設(備考・東京地理志料)。化政期(1804~1830年)の家数446(町方書上)。

古い資料によると、この界隈から火事が頻発していた記事が数多く残されており、1829(文政12)年には神田だけでなく両国橋から築地、佃島、本銀町辺りまでを焼き尽くした大火の火元となった。また、1834(天保5)年にも、江戸市中を焼いた火事が当町から発生している。このように火災の多い町であったため、「悪魔町」と渾名された。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)~1872(明治5)年に神田柳屋敷、神田久永屋敷、神田富松町元地の3町と上野安中藩板倉氏、出羽久保田藩佐竹氏上屋敷他の武家地を合併、神田佐久間町一~四丁目と改編。1872(明治5)年の戸数516・人口2,063。物産は筆、桐油合羽、鼈甲櫛、笄、簪、桶等。明治維新後、政府は津藩上屋敷跡地に東京医学所(現・東京大学医学部附属病院の前身)を設立し、更に1874(明治7)年になると、酒井家跡に文部省医務局薬場を設置。

1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代の町内には、神田代用大橋小学校・同史雲小学校があり、材木商、薪炭業者、米穀商が多く、また明覚道了大菩薩の像を安置する道了堂、大黒天を祀る国典会堂、板倉氏屋敷内の草分稲荷社等があった(画報)。

1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、町民の必死の防火活動によって火災を免れ、「世の奇跡」として市民の賞賛を受けた。そのため当町を含むこの一帯は、1939(昭和14)年1月に、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され、記念碑が建てられた。

なお、町内の佐久間公園はラジオ体操会発祥の地。「国民保険体操のラジオ放送」が開始されて間もなく、1930(昭和5)年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先駆けて佐久間公園で早起きラジオ体操会を始めた。これを記念し、同公園にはその由来を記した碑が建立されている。

1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲では、町全域が焼失。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。それに伴い、現行の神田佐久間町一~四丁目となる。

1984(昭和23)年、現在の三井記念病院の敷地の一部に、当時の農林省東京食糧事務所ができ、全国知事会議や食糧需給上の重要な会議が開催された。現在の和泉公園は食糧難時代の所縁の旧跡といってよい。

撮影場所:神田佐久間町一丁目

撮影地: 千代田区神田佐久間町一丁目19番地(神田川入堀 佐久間橋、千代田区立秋葉原公園)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。