【神田①073】三河町
町番号:神田①073
町名:三河町 一~四丁目
読み方:みかわちょう Mikawachō
区分:町丁
起立:1590(天正18)年か1603(慶長8)年
廃止:1935(昭和10)年
冠称:なし
現町名:千代田区内神田一丁目5、6番西、7・8、10・11、16・17番、二・三丁目、神田司町二丁目1、3、5、7、9番地
概要:一~四丁目、三丁目裏町・四丁目裏町があった。1590(天正18)年、徳川家康関東入国の時、三河の町人に与えられた所(江戸志)とも、1603(慶長8)年の町割の時に与えられた(江戸名勝志)ともいわれる。なお、家康の江戸入りの際、一緒に江戸へ来た三河武士が下谷に移転した後に成立した町ともいわれる。当時、内神田は通町筋と三河町だけだった。寛文年間(1661~1672年)まで「新小田原町」(寛永江戸図)とも呼ばれ、肴店があった。『正保日記』によると、鎌倉河岸の堀に群れていた鴨を追うよう命ぜられた久世広之は、石がなかったため新小田原町の肴店にあった蛤を投げさせたという。また、六組飛脚問屋があり、大名の飛脚・荷役を請け負う町奴が幅を利かせた(東京地理志料)。六組飛脚問屋の名は1823(文政6)年以来の問屋という意味(問屋再興調)。一丁目東隅をはじめ4ヶ所に俗に「御目見屋敷」という角屋敷があった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、医師曲直瀬正琳の拝領屋敷・養安院屋敷が一丁目に、三丁目の一部が二丁目に編入。また、三丁目裏町・四丁目裏町は1871(明治4)年、美土代町三丁目に、四丁目の一部が神田新銀町となる。1872(明治5)年の戸数653・人口3,021、物産に籐製土瓶鉤・足袋・股引があった(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。
1935(昭和10)年、帝都復興計画の一環により、一丁目は鎌倉町に編入、二~四丁目は神田司町一・二丁目に編入となり消滅。
撮影場所:三河町一丁目
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