【日本橋①075】蛎殻町

町番号:日本橋①075

町名:蛎殻町 一~三丁目

読み方:かきがらちょう Kakigarachō

区分:俗称→町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」

現町名:中央区日本橋蛎殻町一・二丁目、日本橋人形町一・二丁目

概要:隅田川下流の西岸に位置する埋立地で、江戸期には稲荷堀(とうかんぼり)以東の里俗名であった。安政6年再板切絵図に「カキカラ丁」とあり、殆どが武家地。1800(寛政12)年、銀座が新両替町から移転し、1868(慶應4・明治元)年、造幣局が新設されるまで、銀貨・銭貨の鋳造がこの地(現行の日本橋人形町一丁目南の地)で行われた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1871(明治4)年までに銀座跡と上総請西藩、信濃諏訪藩、越後村上藩、越前福井藩、陸奥平藩等の諸大名、旗本屋敷地を収公し、新たに町を起立し一~三丁目を置いた。当時の町域は、現行の日本橋蛎殻町一・二丁目、日本橋人形町一・二丁目、日本橋小網町の一部で、町の中央に「松島町」という別の町があった。

1872(明治5)年の戸数556・人口2,325(府志料)。同年、「安産の神」として有名な水天宮(二丁目)が赤坂から移転。この町で生まれた谷崎潤一郎は『幼少時代』に毎月5日の縁日の繁華な様を記すとともに、水天宮の神楽が「一種の古代演劇のような豊富な内容をもつものであった」と述べている。また同年、鎧橋が完成して兜町と結ばれてから、金融、株式、商品取引の中心地として発展の機を得、1874(明治7)年、中外商行会社(のちの蛎殻町米商会所、1893(明治26)年から東京米穀取引所)が創立され(米屋町)、次いで東京商品取引所、東京油問屋市場等が開設された。

1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1880(明治13)年に移転してきた観音堂の縁日は大いに賑わい、水天宮前から神田方面に向かう人形町通りには、大正末期から昭和期にかけて夜店街ができた。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。

1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、一部が小網町二・三丁目、人形町一・二丁目、浪花町芳町に編入され、逆に松島町の一部を加えて一~四丁目を起立した。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。1968(昭和43)年11月5日の大戌日、水天宮では護符を求める参詣人が殺到し、重傷者9名を出した。

1976(昭和51)年1月1日、住居表示の実施により、一部を日本橋人形町一・二丁目に移し、現行の日本橋蛎殻町一・二丁目となる。

撮影場所:蛎殻町二丁目

撮影地:中央区日本橋蛎殻町二丁目4番1号(東京水天宮)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。