【日本橋①040】兜町
町番号:日本橋①040
町名:兜町
読み方:かぶとちょう Kabutochō
区分:町丁
起立:1871(明治4)年以前
廃止:存続
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:中央区日本橋兜町
概要:維新後、1871(明治4)年までに武家地を収公し起立。町名は兜塚、甲山の伝承による(画報)。兜塚(現在の兜神社内)については源義家が奥州征伐凱旋の時、東夷鎮護の神仏加護を祈念して日本武尊の例に倣い、自分の兜で塚を築いたとする説(江戸名所)と、平将門が兜を埋めた塚とする説(江戸鹿子)とがある。また甲山は藤原秀郷が平将門討伐後、将門の兜を埋めたことによるという(紫の一本)。「兜橋」、「兜の渡し」等の地名ができた。
嘗ては沼地だったが、江戸時代に入ると江戸城築城のために埋め立てが行われ、周辺は大名屋敷が建ち並んだ。寛永の切絵図では御船手頭向井将監の邸地で、慶安年間(1648~1652年)以後は牧野氏、文久年間(1861~1864年)以後は松平伊豆守の邸地となり、南端には向井将監邸の俗称「海賊屋敷」に由来する海賊橋が架けられていた。民部省通商司、米商会社他多くの銀行が設置され、現在の兜町の基を作った。
明治に入ると明治維新の恩賞として、兜橋周辺の土地を三井家等が受け取る。1871(明治4)年以前までに「兜町」と名付けられ起立。1872(明治5)年の戸数19・人口98(府志料)。1873(明治6)年7月20日 、渋沢栄一を中心に第一国立銀行本店が開業。その洋風建築は東京の新名所として異彩を放ち、錦絵にも描かれた。
1878(明治11)年、米商会社は蛎殻町に移転。跡地に東京証券取引所の前身である東京株式取引所が設立され、商業(金融)の街へと急速に発展していった。同年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。1923(大正12)年の関東大震災により、辺りは焼け野原となるが、震災後は近代的な街並みに一変した。
帝都復興計画の一環により、1932(昭和7)年には京橋区松屋町一・二丁目の一部を編入、1933(昭和8)年には三代町、坂本町を合併し、一~三丁目となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
1982(昭和57)年1月1日、住居表示の実施により、丁目を廃した。
撮影場所:兜町
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