【京橋①047】三十間堀
町番号:京橋①047
町名:三十間堀 一~三丁目
読み方:さんじっけんぼり Sanjikkembori
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1930(昭和5)年
冠称:なし
現町名:中央区銀座四~七丁目
概要:「三拾間堀」とも書く。町名は現在の中央通りと昭和通りの間に川幅30間の入堀(三十間堀川)があったことによる。江戸期の町域は現行の銀座一~八丁目の一部に及んでいた。三十間堀川に文政年間(1818~1830年)に両端を埋め立て、19間の幅になったという(府志料)。当初は一~八丁目まであったが、芝口門造営の際に一~六丁目となり、1724(享保9)年の芝口門焼失後は再び一~八丁目となった。三十間堀川には北から、紀伊徳川家の蔵屋敷があったことから名付けられた紀伊国橋、新橋、木挽橋が架けられていた(備考)。一・二丁目の境から紀伊国橋に抜ける横丁は「花町」と俗称され、他にも一~四丁目は「銀座〇丁目裏河岸(一・二・三・四)」、五・六丁目は「尾張町裏河岸」、七丁目は「竹川町裏河岸」、八丁目は「出雲町裏河岸」とそれぞれ目抜き通りに対して俗称されていた(備考)。一~六丁目には藍玉問屋、本屋、綿打道具問屋等があった(買物独案内)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年12月、一~三丁目を新両替町から改称する銀座一~三丁目に編入、四丁目を一丁目に、五丁目を二丁目に、六丁目を三丁目に、七丁目を四丁目(1871(明治4)年、三丁目に編入)とし、八丁目は出雲町に編入。1872(明治5)年の戸数193・人口873(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府京橋区に所属。明治期の当町には報知社(のち読売新聞社に吸収)、日出国(やまと)新聞社、富士新聞社、日本新聞社等、新聞社が集中した(画報・案内)。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市京橋区に所属。
1930(昭和5)年、帝都復興計画の一環により、銀座四~七丁目に編入となり消滅。なお、三十間堀川は戦後、埋め立てられた。現行の銀座四~七丁目のうち。
撮影場所:三十間堀二丁目
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