【京橋①048】木挽町

町番号:京橋①048

町名:木挽町 一~十丁目

読み方:こびきちょう Kobikichō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1951(昭和26)年

冠称:なし

現町名:中央区銀座一~八丁目

概要:「木引町」、「木曳町」とも書いた。江戸城修築の時に木挽職人が多く居住したことに由来する。江戸期は三十間堀川東岸の南北に細長い区域で一~七丁目があった。1660(万治3)年、五丁目(現行の銀座六丁目のうち)に江戸三座の1つ、森田座(守田座)が創立され、1856(安政3)年、浅草猿若町に移転するまで興行を続けた。六丁目(現行の銀座七丁目)の山村長太夫の狂言座は1714(正徳4)年に江島生島事件(絵島生島事件)に連座し廃絶。この他にも河原崎座(のち森田座の控櫓となる)・土佐あやつり芝居等があり、芝居茶屋・料理茶屋も付近に建てられた(江戸名所)。また、享保年間(1716~1735年)頃、五丁目には定火消の役宅があったという。紀伊国橋際と汐留川に面する七丁目には舟宿が多く、文久年間(1861~1864)・慶応年間(1865~1868年)頃には汐留川沿いに10軒ほどの舟宿が並んでいたという。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1873(明治6)年までに松村町及び豊前中津藩奥平氏・伊予吉田藩伊達氏等の隣接する諸大名上・下屋敷を合併、町域を東側に拡張し一~十丁目を起立。1872(明治5)年の戸数622・人口3,196(府志料)。三十間堀沿いの東豊玉河岸には倉庫が多数置かれ、共同物揚場となった(画報)。官庁・銀行・会社等も多数設置され、八丁目(現行の銀座八丁目のうち)には逓信省、十丁目(現行の銀座六丁目の一部)には農商務省が置かれた。

1878(明治11)年11月2日、東京府京橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市京橋区に所属。

1931(昭和6)~1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、采女町、南水谷町(前身は京橋水谷町)、金六町新富町一丁目、南八丁堀の一部を合併し、一~八丁目に再編成。1943(昭和18)年7月1日、東京都京橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。

1951(昭和26)年、「銀座東一~八丁目」と改称して消滅。現行の銀座一~八丁目のうち。

撮影場所:木挽町三丁目

撮影地:中央区銀座四丁目12番15号(歌舞伎座)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。