【芝①005】汐留町

町番号:芝①005

町名:汐留町 一・二丁目

読み方:しおどめちょう Shiodomechō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1965(昭和40)年6月30日 「芝汐留」として

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「芝」

現町名:港区東新橋一・二丁目

概要:「汐留」は江戸期から俗称されていた。「塩留」とも書いた(江戸雀、延宝江戸図、元禄江戸図)。江戸時代以前、当地は江戸湾(東京湾)海辺の湿地帯であった。1603(慶長8)年以後、徳川家康が発令した天下普請(諸大名の財力を用いた、奉仕による城下町建設事業)によって汐留の埋立地が完成した。「汐留」の名は、『画報」では「江戸城外堀に潮の干満が及ばないよう土橋が堀止まりになっていたため、この地域が潮溜りとなっていたことに由来する」としているが、『角川日本地名大辞典』では「そうなっていた事実はないのでうなずけない」と否定している。また、『港区史』では、「昔、塩問屋があった(鹿子)ともいうが、正保年間(1645~1648年)以前は外堀(汐留川)が三十間堀に繋がり、海は堤防で仕切られ、潮留になっていたからであろう」としている。

これ以降、当地には木材、薪等の商人が集まって住むようになり、「三角屋敷」という商人たちの屋敷ができる。また、周辺には武家屋敷等が並ぶようになる。1724(享保9)年、三角屋敷の地が町として独立し、「汐留三角屋敷」となる。「汐留」とは芝口新町、汐留三角屋敷等ができてから、この両町の異称でもあった。

1869(明治2)~1872(明治5)年、芝口一丁目東側(町)芝口新町、汐留三角屋敷を合併して「汐留町」が成立。現行の新橋一丁目7番と6番南部。1872(明治5)年、日本初の鉄道の起点である新橋駅(後の汐留貨物駅)が開業すると、同年に芝口一丁目に編入となる。しかし同時に旧新橋駅の鉄道用地と旧武家地が合併し、汐留町一・二丁目が新たに成立。現行の東新橋一丁目5、8番。なお、『角川日本地名大辞典』によると、「1872(明治5)年に汐留新町と武家地を合併、汐留一丁目とした」という『府志料』は誤りだという。

1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。1908(明治41)年の世帯数89・人口515。鉄道開業後は駅前商店街として大いに賑わったが、1914(大正3)年12月20日に新橋駅が貨物専用汐留駅となって町況が変わった。

帝都復興計画の一環により、1932(昭和7)年12月1日に新銭座町1~7番とこれらに沿う官有無番地を合併、「町」を取って単に「汐留」と改称。一丁目は汐留と新橋一丁目に、二丁目は汐留に再編。1935(昭和10)年の人口1,435。殆どが汐留貨物駅とその付属施設。1943(昭和18)年7月1日、東京都芝区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。

1965(昭和40)年7月1日、住居表示の実施により、芝新橋二~六丁目の第一京浜国道寄り東側を併せ、東新橋一・二丁目のそれぞれに編入となり消滅。2002(平成14)年11月2日には都営地下鉄大江戸線とゆりかもめの「汐留駅」が開業し、界隈を呼ぶ「汐留」が復活した。

撮影場所:汐留町一丁目

撮影地:港区東新橋一丁目5番3号(旧新橋停車場鉄道歴史展示室)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。