【芝①040】芝新網町

町番号:芝①040

町名:芝新網町 北側・南側

読み方:しばしんあみちょう Shiba-Shin-Amichō

区分:町丁

起立:1634(寛永11)年9月21日

廃止:1936(昭和11)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「芝」

現町名:港区浜松町二丁目、海岸一丁目

概要:古くは「芝浦」と称する海辺で、徳川家康の関東入国の頃は漁業が盛んであった。1626(寛永3)年頃から江戸城へ白魚を献上し、その賞として1630(寛永7)年、100間四方の浜辺が網干場として下賜された。1634(寛永11)年9月21日、漁夫の居住町屋を起立。町名は網干場であったことによる。化政期(1804~1830年)の家数632軒、うち家持8・家主30・店借569(書上)。『沿革図書』では町の中央に入り堀があり、その北側を北新網町、南側を南新網町と記す。町内には「南側」、「北側」の俗称があった(備考)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数547・人口2,165(府志料)。1872(明治5)年の鉄道開業以来、東部は線路敷となった。内湾漁業の不振に伴い、高密度居住地(スラム)として有名になった。

1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。1908(明治41)年の世帯数912・人口3,375(市勢調査)。明治期以降、町内を分け、「芝新網町南(町)」、「芝新網町北(町)」、或いは「南新網町」、「北新網町」又は「芝新網町南側」、「芝新網町北側」と称した(画報、港区役所本籍記載)。

帝都復興計画の一環により、1932(昭和7)年12月1日に一部は浜松町三・四丁目に、1936(昭和11)年には残部が海岸通一丁目に編入となり消滅。現行の浜松町二丁目、海岸一丁目のうち。

撮影場所:芝新網町北側

撮影地:港区浜松町二丁目9番8号(讃岐小白稲荷神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。