【麻布①002】飯倉狸穴町

町番号:麻布①002

町名:飯倉狸穴町

読み方:いいぐらまみあなちょう Iigura-Mamianachō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:存続 「麻布狸穴町」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「飯倉」、1947(昭和22)年3月15日から「麻布」

現町名:港区麻布台二丁目1番、東麻布二丁目の西北部、三丁目の東北部及び麻布狸穴町

概要:飯倉町(飯倉10ヶ町)の1つ。『明暦新添江戸図』には「まめあな」と見えるが、元禄年間(1688~1704年)以降の江戸図は「マミアナ」とある。「狸穴」の他、「魔魅穴」(鹿子・万葉記)・「猯穴」(図鑑綱目)・「貍穴」(案内)の漢字を宛てる。狸穴はもと麻布・飯倉の両方にかかっていた地名で、『備考』所引の『御徒頭万年記』に1644(寛永21)年3月3日、将軍が麻布薬種畑にお成りのとき、御徒頭能勢市十郎に麻布の貉の穴の様を見てくるように命じた、とあるのは、当地の「マミアナ」を差すものと考えられる。「マミ」とは、雌狸とも鼬ともいわれるが、動物学上は穴熊をいう。また荻生徂徠は「マミ」を間府(坑道)と解し、1721(享保6)年頃、黄金のような砂が出たが、年代が足りず、採掘には至らなかったと書いている(可成談)。江戸期は、現行の麻布台二丁目1番の西北角に南北に長いところと、狸穴坂をさらに下った同じ側の東麻布二丁目9番地の西側から10番地辺の2ヶ所に分かれていた。

起立年代は不明。1678(延宝6)年、町域の一部が甲府宰相・徳川綱重の下屋敷に召し上げられ、代地が飯倉永坂町に与えられたため、その飛地の年貢は狸穴町で受け取って納めている。町奉行・代官の両支配。1828(文政11)年の総家数27軒、うち地主1・家主3・地借5・店借18(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、付近の陸奥三春藩秋田安房守屋敷他の武家地を合併して町域を拡げ、現行の麻布台二丁目1番、東麻布二丁目の西北部、三丁目の東北部及び麻布狸穴町(麻布台・東麻布となった部分の残存部)の範囲となった。町域東辺に狸穴坂が外苑東通りから南下している。1872(明治5)年の戸数68・人口362(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。

住居表示の実施により、1962(昭和37)年10月1日、一部を東麻布二丁目に編入。1974(昭和49)年1月1日、東部を麻布台二丁目一番とし、西半は現行の麻布狸穴町として残る。

撮影場所:飯倉狸穴町

撮影地:港区麻布台二丁目1番(在日ロシア連邦大使館・領事部)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。