【麻布②】飯倉町

町名:飯倉町

読み方:いいぐらまち Iiguramachi

区分:総称

起立:江戸期

廃止:明治初年

冠称:なし

現町名:港区麻布台一・二丁目、東麻布一~三丁目、麻布狸穴町、芝公園四丁目、六本木五・六丁目

概要:「飯倉」は芝浦海岸に面し、国道1号に沿う。地名の由来は3説あり、第1は諸国に屯倉を設置した際の米穀蔵に由来するというもの(砂子、江府神社略記、備考続編)、第2は文武天皇のとき、諸国に義倉を設けたことによる(新編武蔵)、第3は当地にある芝丸山古墳が飯を盛った形で、飯座(いいくら)が飯倉に転訛したとする説(地名辞書)等がある。付近には平安期の住居址が発見されていて、古海道沿いの集落が早くから開けていたと思われる。平安末期には伊勢神宮の御厨(みくりや)が置かれた(神鳳鈔)。

「飯倉郷」は戦国期に見える郷名。豊島郡に属す。『砂子』は矢盛七庄の1とする。『役帳』に小田原北条氏の家臣御馬廻衆の大草左近大夫の所領として「卅九貫七百八十文 飯倉之内前引」、江戸衆の島津孫四郎「三拾八貫百五拾文 飯倉内桜田 善福寺分」、同じく同衆の太田新六郎康資の寄子蒲田分として「拾四貫八百五拾文 江戸飯倉内小早川」、また同じく飯倉弾正忠「弐貫八百七十弐文 飯倉之内」とある。飯倉氏は土着の侍であったと推定される。1562(永禄5)年4月16日の北条氏康の判物で、新参の本田某に「一ヶ所江戸廻り飯倉」を知行として宛行っている(本田文書/武文)。1571(元亀2)年7月28日には、江戸城将の遠山政景の吉祥寺(当時は平川村にあった)の寺領として「六貫文 飯倉郷之内有之」と見え、ただしこのうちの2貫700文が同年の増分で、前々から箕輪大蔵の寄進であると述べている(武文)。小早川や桜田(千代田区)一帯も飯倉郷の内であったことがわかり、江戸城下近くに吉祥寺の寺領が点在していた。徳川家康の関東入国後の1607(慶長12)年3月28日付の本願寺教如の證状に「武州豊島郡飯倉郷阿佐布善福寺」と記す(光西寺文書/埼玉の中世文書)。しかし、1590(天正18)年4月日付の善福寺宛の豊臣秀吉禁制には「武蔵国白金之郷阿佐布善福寺」と記述し、白金之郷とも呼ばれていたと思われる(善福寺文書/武文)。芝神明社は当時は飯倉神明社と呼ばれていたらしい(武文)。江戸期は御府内の町場となる。

「飯倉村」は江戸初期の村名。豊島郡麻布領のうち。幕府領。『田園簿』の村高は田63石余・畑85石余、計149石余。『元禄郷帳』には「飯倉町」と見え、飯倉村は元禄年間(1688~1704年)まで、「飯倉町」と改称された。

「飯倉町」は江戸期から明治初年の飯倉10ヶ町の総称。豊島郡麻布領のうち。幕府領。『元禄郷帳』の石高は94石余、『天保郷帳』では81石余、『旧高旧領』では75石余。東は増上寺山内より芝切通辺に、西は麻布龍土六本木より永坂辺に、南は赤羽新堀に、北は西久保より麻布我善坊町辺に接す(新編武蔵)。地内を虎ノ門より品川宿へ至る往還が通るため早くから町場化し、1662(寛文2)年に町奉行支配に属す。『新編武蔵』では町奉行支配地は総反別6町8反余のうち4町3反余で、飯倉町一~六丁目、飯倉片町飯倉永坂町飯倉狸穴町飯倉六本木町の10ヶ町に分かち、以上を総称して「飯倉町」と称した。また残余の2町5反余は同書に「飯倉町在方分」として長谷川甚兵衛抱屋敷、戸沢大和守抱屋敷、大島俊次郎抱屋敷、光円寺抱地等を記す。明治初年、総称の「飯倉町」は消滅し、町奉行支配の各町は飯倉町一~六丁目、飯倉片町飯倉狸穴町飯倉永坂町麻布六本木町となる。

撮影場所:飯倉町

撮影地:港区麻布台二丁目4番5号(メソニック39MTビル)

麻布町 三ヶ町

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落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿