【麻布①029】麻布霞町
町番号:麻布①029
町名:麻布霞町
読み方:あざぶかすみちょう Azabu-Kasumichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1967(昭和42)年6月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区西麻布一~三丁目、六本木六・七丁目
概要:江戸以前、後の麻布霞町一帯に人家はなかったようだ。江戸時代に入り、延宝年間(1673~1681年)頃には、大部分が武蔵忍藩阿部播磨守下屋敷(岩城棚倉藩か)となった。また、現在の西麻布二丁目の麻布児童館周辺一帯は、青山原宿村の田畑であった。阿部氏の屋敷は変化なく幕末まで続いたが、原宿村は時代とともに北部は段々と減っていき、一部は麻布村となり、小役人が住み着いたという。
1872(明治5)年、武蔵忍藩阿部播磨守下屋敷、伊予宇和島藩伊達遠江守屋敷等の武家地を合併し起立。町名の由来は隣の麻布桜田町にある桜田神社(霞山稲荷)から。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。その後1891(明治24)年3月に原宿村飛地字五反田のうち、1~5番地まで、15~17番地までを合併(西麻布交差点から青山方面に向かう現在の外苑西通り一帯)。阿部氏の子孫は明治維新後も一帯北部に居住し、北部高台一帯を「阿部山」と呼んだ。嘗ては現在の西麻布三丁目、麻布笄町との境界にある大横丁坂(富士見坂)一帯には「大横丁」という俗称があった。現在の六本木通りのうち、麻布霞町地区に道路が通ったのは明治末年頃で、1914(大正3)年には市電が通うようになり、次第に活気づいたという。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
住居表示の実施により、1967(昭和42)年1月1日に西麻布一~三丁目に(その後、一部を六本木に変更)、1967(昭和42)年7月1日には六本木六・七丁目に編入となり(その後、一部を西麻布に変更)消滅。
撮影場所:麻布霞町
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