【牛込①015】市ヶ谷冨久町

町番号:牛込①015

町名:市ヶ谷冨久町

読み方:いちがやとみひさちょう Ichigaya-Tomihisachō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年又は1872(明治5)年7月

廃止:存続 「富久町」として

冠称:「市ヶ谷」、1911(明治44)年5月1日から2002(平成14)年4月1日まで「市谷」

現町名:新宿区富久町、住吉町、余丁町、市谷台町

概要:江戸時代は武家地・寺地であった。1869(明治2)年、市ヶ谷自證院門前(町)、市ヶ谷修行院門前、市ヶ谷薬王寺門前を併せて市ヶ谷冨久町とし、1872(明治5)年7月には薬王寺、修行寺、珠宝寺、慶善寺、道林寺、自證院、源慶寺、市ヶ谷三軒屋敷、内藤新宿飛地、駿河田中藩本多家下屋敷、百人組与力大縄地、御先手組大縄地、旗本屋敷を併合した。町名は、「久しく富む町」への願いを込めた嘉語による。冨久町谷は紅葉川渓谷中最大で、四谷の一谷を成すと考えられている。同年の戸数93・人口294(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。「電車の四谷方面に通ぜしと、東京監獄の新築なりしとに因り、旧梅の木の辺並に自證院門の境内を開拓して、新たに家を建てたること幾軒なるを知らず。今尚お開拓しつつあれば、将来は人煙稠密に至るべし」。東京監獄は1903(明治36)年の設置で、未決監であった(画報)。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。

1983(昭和58)年8月1日、住居表示の実施により、市谷冨久町の大部分と市谷台町の一部、余丁町の一部、花園町(道路のみ)、四谷四丁目(道路のみ)、愛住町(道路のみ)の各一部を併せた町域もって「富久町」が成立する(冠称が外れ、「とみ」の字がワ冠からウ冠となる)が、富久町には編入されずに、「市谷冨久町」として残った地域も存在した。しかし、1986(昭和61)年11月4月に善慶寺や東洋美術学校の南側付近が住吉町に、新宿区立余丁町児童遊園の西に隣接する一画が余丁町に編入となり、さらに2002(平成14)年4月2日、最後まで「市谷冨久町」として残った東京都立小石川工業高等学校(当時)の敷地東に接する道路部分も市谷台町に編入となり遂に消滅。

撮影場所:市ヶ谷冨久町

撮影地:新宿区富久町8番19号(エスポワール市ヶ谷)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。