【牛込①066】大久保余丁町

町番号:牛込①066

町名:大久保余丁町

読み方:おおくぼよちょうまち Ōkubo-Yochōmachi

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:存続

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「大久保」

現町名:新宿区余丁町

概要:古くは豊島郡野方領戸塚村に、江戸初期には同郡東大久保村に属し、後に御旗組屋敷地となった。域内に4条の小路があったので、俗に「大久保四丁町」と俗称された。

1872(明治5)年、大久保前町(武家地で一部百姓町屋)を併合した際、「大久保余丁町」と改称し(新宿区町名誌)、正式に起立。「四」の字が「死」を連想させるということで「余」の字に改められた(一説には『復元江戸情報地図』では既に「大久保余丁町」とあるので改称はそれ以前ではないかともいわれている)。同年の戸数47・人口141(府志料)。1873(明治6)年、旧大久保前町を分離(と『角川日本地名大辞典』にはあるが、どの明治期の地図を見ても、大久保前町は当町町域に存在する)。

1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。「旧組屋敷なりしを以て、今尚官吏等の家宅多く、其の大久保躑躅園、戸山射的場に通ずる表通りは、漸次繁栄を加え、商店の日に加うるを見る」(画報)。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。新宿区は「東新宿」と改称させたいが、住民は「余丁町で何が悪い?」と強く抵抗し、機械的な町名に改称されずに済んでいるとのこと。あっぱれだ。

住居表示の実施により、1982(昭和57)年7月5日に一部(道路のみ)を若松町に、1983(昭和58)年8月1日にも一部(道路のみ)を富久町に、1986(昭和61)年2月24日にも一部(道路のみ)を河田町に、1986(昭和61)年11月4日にも一部(道路のみ)を住吉町に編入し、同日、余丁町の大部分と東大久保二丁目の一部、富久町の一部、市谷台町の一部をもって現行の余丁町とした。

撮影場所:大久保余丁町

撮影地:新宿区余丁町8番5号(厳島神社抜弁天)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。