【牛込①017】市ヶ谷河田町

町番号:牛込①017

町名:市ヶ谷河田町

読み方:いちがやかわだちょう Ichigaya-Kawadachō

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:存続

冠称:「市ヶ谷」、1911(明治44)年5月1日から1986(昭和61)年2月23日まで「市谷」

現町名:新宿区河田町

概要:古くは豊島郡野方領牛込村川田窪。「川田」も「河田」も川の傍にある田圃の意で特段の違いはない。牛込地域であるのに「市ヶ谷」を冠したのは余丁町との間の谷間(窪)が市ヶ谷の方に張り出していたため。「河田」は川の浅い湿地に開いた田圃の意。水田といっても全てが稲田という訳ではない。

※1907(明治40)年の『東京市十五区番地界入地図』(東京郵便局、東京逓信管理局編纂)には「市谷河田町」と「ヶ」なし。逆に本村町は「ヶ」ありとなっている。

1872(明治5)年、牛込村字川田窪に、尾張名古屋藩徳川氏別邸(抱屋敷)の極一部、豊前小倉藩小笠原氏下屋敷、出雲広瀬藩松平氏下屋敷、丹後宮津藩松平下屋敷、正覚山月桂寺、多少の武家地が合併して起立。町名は前述の「川田窪」から。また、牛込の地であるのに「市ヶ谷」の冠称を付した理由として、大久保四丁町との間の窪田(谷間)が市ヶ谷の方に延びでいたためである。同年の戸数11・人口88(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。『画報』に「藩邸多きを以て、其の一番地の区域甚だ広し。方今は各種学校の外、(中略)諸華族居住し、最も静粛の地なり」とあり。「各種学校」とは、東洋女医学校、陸軍経理学校、東京女子奎文美術学校、中国人留学生に日本語を教授した振武学校をいう。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。

1986(昭和61)年2月24日、住居表示の実施により、市谷河田町の大部分、原町三丁目の一部、住吉町の一部と、若松町(道路のみ)、市谷仲之町(道路のみ)、余丁町(道路のみ)の各一部を併せて現行の河田町となる。

撮影場所:市ヶ谷河田町

撮影地:新宿区河田町8番1号(東京女子医科大学教育・研究棟)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。