【小石川①057】音羽町

町番号:小石川①057

町名:音羽町 一~九丁目

読み方:おとわちょう Otowachō

区分:町丁

起立:1697(元禄10)年

廃止:存続 「音羽」として

冠称:なし

現町名:文京区音羽一・二丁目、小日向三丁目、目白台三丁目

概要:護国寺領3ヶ町の1つ。もとは雑司ヶ谷村、小日向村、関口村の地。1697(元禄10)年に護国寺領となり、町屋起立が指示されるが、家作人がないため、桂昌院の信任が厚かった奥女中の「音羽」という人物にこの門前町を拝領したため「音羽町」と名付けられた。1713(正徳3)年に町奉行支配となる。1723(享保8)年、町屋は取り払われ、寺社奉行地となったが、1730(享保15)年に再び町屋が許され、1745(延享2)年から再び町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数783軒(町方書上)。

護国寺門前の当町には、参拝客相手の茶店等ができ、宝永年間(1704~1711年)には江戸市中の岡場所の1つとして栄えるようになった。1723(享保8)年、町奉行大岡越前守等は、享保の改革の一端として売春施設一切の取り壊しを命じた。その後、延享年間(1744~1748年)に六~九丁目にかけて歓楽街が復活し、天保の改革時まで江戸有数の岡場所として賑わったが、この改革に際しても徹底して守られることはなかった。音羽の岡場所は一般大衆相手の遊郭で、川柳にも数多く歌われた。当町には吉田屋、三河屋等の料理屋があり、三都の名物を挙げている『富貴地座位』には音羽町のあみかさ餅が記されている。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1871(明治4)年7月、土地、新屋敷を合併。1872(明治5)年8月、小日向町の一部を合併。同年の戸数632・人口2,324、物産に大高紙、地政紙、地漉紙、漉返紙、今戸焼鍋があった(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1880(明治13)年9月、七丁目の一部を小日向台町三丁目に編入(『文京区史』では「7月」とある)。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。音羽地区の製紙業は、1833(天保4)年、信州伊那郡の久保田増平が紙漉の技術を持ち込んだことに始まった。1885(明治18)年頃の生産品には土佐子紙、地政紙、泉貨紙等があり、1890(明治23)年に紙漉業者も79軒となった。明治中期以降洋紙の本格化と市街地化に伴い、徐々に衰退していった(文京区史)。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。

住居表示の実施により、1966(昭和41)年4月1日には一部を小日向三丁目に、残余は1967(昭和42)年1月1日に丁目を整理して音羽一・二丁目とし、さらに残余を目白台三丁目に編入。

文京区の北部に位置し、南北に細長く、最南端で神田川に接する。閑静な住宅街、音羽通りを挟む谷(音羽谷)の崖下と崖上に跨る街を有する。出版社である講談社や光文社(俗に言う音羽グループ)、鳩山会館等が存在する。東で小日向大塚、西で関口・目白台、南で関口水道、北で大塚と接する。

撮影場所:音羽町九丁目

撮影地:文京区音羽一丁目4番4号(今宮神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。