【小石川①063】関口町
町番号:小石川①063
町名:関口町
読み方:せきぐちまち Sekiguchimachi
区分:町丁
起立:1872(明治5)年7月
廃止:存続 「関口」として
冠称:なし
現町名:文京区関口二・三丁目、目白台一丁目
概要:1872(明治5)年7月、目白台の付近の武家地、黄檗宗龍泉山洞雲寺、日蓮宗妙法山蓮光寺、浄土宗法樹山養国寺の寺地を合併して起立。町が開かれるにつれて飛地ができ、10ヶ所に分かれていた(隣の関口台町とは複数箇所で入れ子になっていた)。同年の戸数28・人口118(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。神田川に架かる駒塚橋と大滝橋の間に大洗堰があることから「大洗堰」の俗称があった。ここで取り入れられた神田上水は江戸城の北西の地域に飲用水を供給してきたが、1901(明治34)年6月廃止となった。江戸期には国学者北村季吟の別荘琉儀荘があり、また明治期に建てられた山縣家の椿山荘は現在も残る。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、小日向東古川町の全部、小日向西古川町の全部、小日向松ヶ枝町の全部、小日向町の全部、関口水道町の一部、関口台町の一部が合併し一丁目が、桜木町の一部、関口水道町の一部、関口駒井町の全部、関口町の一部を合併し二丁目が、関口台町の一部、関口町の一部が合併し三丁目が成立した。なお、もともと関口町だった地域は、関口二・三丁目、目白台一丁目のそれぞれに編入となった。
なお、そもそもの「関口」について以下に詳述する。
神田川の北岸に位置する。地名の由来は、嘗て奥州街道の関があったことによるとする説と、神田上水を江戸川(神田川)へ分派するため堰を設けたことによるとする説がある(新編武蔵、備考)。神田上水は1590(天正18)年頃の開設と伝えられるので、それ以後に「関口村」の名称が起ったのではないかといわれる。
「関口村」は、江戸期の村名。豊島郡峡田領のうち。1625(寛永2)年12月、佐々与右衛門実時が関口村30石余を秀忠より拝領している(記録御用書本古文書)。『新編武蔵』には、徳川氏入国後、細田加右衛門、佐々与右衛門、縫山市左衛門3人の領地となったが、正保年間(1645~1648年)頃に幕府領になったとある。『田園簿』の石高は31石余で「樽屋藤左衛門、南(奈)良屋市右衛門、喜多村彦右衛門御代官所」とある。1692(元禄5)年、一部が牛込済松寺領となった。村内は天和年間(1681~1684年)に町屋が開かれ、貞享年間(1684~1688年)以降は町場化し、関口水道町、関口駒井町等が町奉行支配下となり、残地は関口町在方分と称した(新編武蔵)。『旧高旧領』には関口町を記し、石高は幕府領23石余、済松寺領8石余。大洗堰で取り入れられた神田上水が村内北寄りを流れ、神田上水は江戸城北西の地域に飲料水を供給した。村内には水神社、春日八幡の他、一橋家抱屋敷、松平大炊頭抱屋敷があった。
以上のとおり、当町は関口各町の冠称がそのまま町名となっているが、1872(明治5)年からの新しい町であり、小石川町や小日向町と同様に、この関口町が関口の中心地だったというわけではない。
撮影場所:関口町
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