【下谷①030】上野町

町番号:下谷①030

町名:上野町 一・二丁目

読み方:うえのまち Uenomachi

区分:町丁

起立:1625(寛永2)年

廃止:存続 「上野」として

冠称:なし

現町名:台東区上野三・四、六丁目

概要:1625(寛永2)年、寛永寺創建に際し、代地としてこの町に町屋を開いた。旧地は上野山内西側にあったが、その地が寛永寺境内になったため、上野山麓南方のこの地に移転した。町名は旧地が上野村といっていたのに因んだ。上野村については詳細不明。

寛永寺創建後、この地は寛永寺の門前町として発達した。延宝年間(1673~1680年)に一・二丁目に分けられて幕末に至った。現在の上野仲通りにあたる道路の両側に一丁目が2ヶ所、二丁目が4ヶ所、上野広小路の両側の裏通りに一丁目の飛地(通称「五軒長屋」)があり、神田松永町続きに代地が1ヶ所あった(東都下谷絵図)。名主は佐久間源八、先祖は二羽藤兵衛で6代目から「佐久間」と改姓、二羽稲荷へ供する二羽の矢を売っていた(備考)。一丁目は肴店といって嘗て肴屋があり、二丁目には御膳、白玉、餅のほてい屋、鼈甲の加納屋、休療丸の丸屋等があり、徳大寺摩利支天の祭は賑わった(買物独案内)。また『天保郷帳』には25石余と記している。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治初年、一丁目に一乗院の大部分、二丁目に徳大寺を併せて町域を拡げた。江戸期の上野町二丁目には、「摩利支天横丁」、「三枚橋横丁」、「六阿弥陀横丁」と称するいずれも東西に走る小路があった。1872(明治5)年の戸数286・人口1,327(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、一丁目は春日通りを境にして、南側が上野三丁目に、北側が上野四丁目に編入となった。二丁目は一部が当時国鉄高架線下が上野六丁目になったのを除き、大部分が上野四丁目に編入となった。


なお、そもそもの「上野」について以下に詳述する。

「上野」とは、小野篁所縁の地であるためとも(小野照崎神社縁起)、藤堂和泉守が伊賀上野より来た際、命名したものとも(砂子、遊暦雑記)、小高い岡で草の生い茂る地であったためとも(江戸往古国説)いう。文明年間(1469~1486年)の道興准后の紀行文『廻国雑記』に「忍岡」とあるのは当地のこととされている。なお、戦国期には「上野」とはっきり見える。『役帳』に小田原北条氏の家臣江戸衆円城寺氏配当分として「拾八貫弐百廿文 江戸上野」また同じく江戸衆で浮役寄合衆の島津孫四郎配当分として「五貫七百文 上野内法林院分」と見える。

「上野村」とは、江戸初期の村名。『備考』に「東叡山山御開闢已前は葭萱生茂り候小高き岡山にて、一円上野村と申候由及承申候」とあり、「二羽村」ともいったと伝える。『新編武蔵』豊島郡坂本村の項によれば、同村の旧家二葉伝次郎は1591(天正19)年の『武州豊島郡上野郷水帳』を所持していたという。寛永年間(1624~1645年)に東叡山寛永寺創建のため収公され、上野山南麓に代地を給された。代地は後に町屋を開き、上野町一・二丁目となる(備考)。以後、「上野」の呼称は寛永寺を中心とする台地一帯を指す汎称として親しまれ、現在に至っている。

撮影場所:上野町二丁目

撮影地:台東区上野四丁目5番10号(シュープラザ上野店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。