【下谷①040】上野花園町

町番号:下谷①040

町名:上野花園町

読み方:うえのはなぞのちょう Ueno-Hanazonochō

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:1966(昭和41)年12月31日

冠称:「上野」

現町名:台東区池之端三丁目、上野公園

概要:この地は江戸時代、「上野御花畑」と呼ばれており、その先は藍染川が不忍池に注ぐ地点であった。寛永寺創建後、この地は寛永寺領に属し、藍染川の豊かな水量を利用して、寛永寺の花畑がここに造られた。そこでこの地を「上野御花畑」と称していたらしい。その後、年代は不明だが、この地の一部に上野家来屋敷が建てられた。

1872(明治5)年、上野家来屋敷(現・池之端三丁目1~3番)と谷中村飛地(現・根岸一丁目1~3番)、徳川氏廟所火除地(現・上野桜木一丁目)等を合併して上野花園町が起立。町名の由来は江戸時代からこの地の呼び名であった「花畑」に因んで付けられた。その後、上野桜木町起立にあたって、町域の大部分を割譲した。その結果、江戸期に「花畑」と称していた所と上野家来屋敷の範囲のみが上野花園町として残った。明治の文豪・森鷗外は上野花園町11番地に1年半程住んだ。今は水月ホテル入口前に森鷗外旧居石碑がある。ホテルの前庭には鷗外の住んだ家と門が残されている。1872(明治5)年の戸数21・人口72(府志料)。

1874(明治7)~1878(明治11)年にかけて、上野桜木町を分立し、町域は嘗ての上野家来屋敷の地だけとなる。町名の由来は通称による。「御花畠 不忍池の北。当時やしきあり。俗御花畠という。上の畑 右御花畠の北並谷中への道也。これも御花畠にてありし。すこしの道を隔て上下の御花畠といいしにや」(砂子)とある。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、池之端三丁目に、極一部が上野公園にそれぞれ編入となり消滅。

撮影場所:上野花園町

撮影地:台東区池之端三丁目3番21号(水月ホテル鷗外荘)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。