【浅草①010】浅草須賀町

町番号:浅草①010

町名:浅草須賀町

読み方:あさくさすがちょう Asakusa-Sugachō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年4月

廃止:1934(昭和9)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区柳橋二丁目、浅草橋二・三丁目

概要:古くは豊島郡峡田領鳥越村のうち。前身は浅草天王町。「祇園社、当社牛頭天王は天歴年中の鎮座なりとぞ。大倉前の総鎮守にして別当を大円寺と号す」(江戸名所図会)とのことで、牛頭天王社があるので「浅草天王町」と称した。

浅草天王町の成立年代は不明。寛文江戸図に「天王丁」の記入があり、かなり古くから開かれていたと推定される。奥州街道を浅草橋から北上して、鳥越橋の手前両側にあったが、1688(元禄元)年に東側が収公されて本所に代地を給された。1718(享保3)年、上野山内からの出火で類焼、翌年奥行20間のうち、街道沿い12間が収公されて浅草茅町二丁目裏に代地を与えられ、「浅草天王町代地」と称した(備考)。化政期(1804~1830年)の家数は浅草天王町16軒、浅草天王町代地30軒(町方書上)。

町内に菓子の甘林如松、お茶漬の蓬莱屋、生そばの梅園等があった(買物独案内)。牛頭天王社の祭日は6月8日で、笹団子を献じたので「団子天王」ともいった。別当は大円寺。隣接する華徳院には閻魔堂があって、正月と7月の16日は参詣客で賑わった。また鳥越橋は俗に「天王橋」といわれ、下を流れるのは鳥越川で、長さ10間、幅4間の物揚場があった(備考)。

前身の浅草天王町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、天王社が「須賀神社」と改称したのに伴い、同年4月に町名を「浅草須賀町」と改称。また浅草天王町代地は「浅草新須賀町」となる(改称時期は2説あり)。

1671(寛文11)年版の新板江戸絵図通 称寛文図に「天王丁」と記されている。 その後、幕末頃の嘉永図を見ると、奥州街道の西側、鳥越川の南側に「天王丁」と3ヶ所記入されている。この3ヶ所に、嘉永図の記す天王社とその門前、大円寺、華徳院を加え、さらに街道東側の植物御用地、御蔵役人、本多中務大夫と松平伊賀守邸を合して、浅草須賀町は町域を確定した。尤も松平邸は一部を合したらしい。一部は浅草瓦町に編入された。1869(明治2)年から1872(明治5)年にかけて町域変更が行われ、浅草天王社門前、浅草大円寺門前、街道東側の植物御用地、御蔵役人屋敷を合併。また、1872(明治5)年6月に松平、本多邸を合併した。同年の戸数85・人口343(府志料)。また東京案内は「明治2年4月大円寺門前、須賀門前町を本町に合し」と述べている。なお、現在、須賀神社は再編後の浅草橋二丁目にある。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、柳橋二丁目、浅草橋三丁目に編入となり消滅。現在の国道6号を挟んで柳橋二丁目、浅草橋二・三丁目。

撮影場所:浅草須賀町

撮影地:台東区浅草橋二丁目29番16号(須賀神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。