【浅草①022】浅草福富町
町番号:浅草①022
町名:浅草福富町
読み方:あさくさふくとみちょう Asakusa-Fukutomichō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1934(昭和9)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」
現町名:台東区浅草橋三丁目
概要:もと松平山西福寺の南側にあったが、1732(享保17)年に火災に遭い、本多肥後守・織田伊賀守の上地跡(西福寺の西南方)に代地を給されて浅草福富町一丁目となる。二丁目は西福寺の北に1ヶ所、さらに北方の浅草駒形町にかけて5ヶ所あった。元地に町屋が開けたのは類焼以前になるが、その年代と由来は不詳。化政期(1804~1830年)の家数112軒(町方書上)。一丁目には御蔵手代・書替手代・御細工所頭・天守番内海左内等が住んでいた。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、一丁目は隣接の頒暦調所跡地・修験屋敷等を併せて浅草福富町、浅草旅籠町となり、二丁目は浅草南富坂町、浅草新福富町となる。頒暦調所は天文・暦術等を管掌した江戸幕府の役所で、その跡地にあった浅草福富町は俗に「天文原」、「天文台」等とも呼ばれた。1872(明治5)年の戸数68・人口306(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、西半部が鳥越二丁目に、東半部が蔵前一丁目に編入となり消滅。現行の全域が浅草橋三丁目のうち。
撮影場所:浅草福富町
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