【浅草①039】浅草駒形町
町番号:浅草①039
町名:浅草駒形町
読み方:あさくさこまがたちょう Asakusa-Komagatachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続 「駒形」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1963(昭和38)年12月31日まで「浅草」
現町名:台東区駒形一丁目、雷門二丁目、寿四丁目
概要:起立年代は古く、寛文図には既に「こまかた丁」と書かれている。江戸時代初期には起立していたと考えられる。浅草寺領で、隣接地に茶屋や貸舟屋が多く、舟着場でもあった。「君はいま駒形あたりほととぎす」、新吉原の遊女高尾の仙台侯への恋慕の句と伝える。初代安藤広重もこれをうけて『名所江戸百景』の駒形堂の空に不如帰を配している。化政期(1804~1830年)の家数195軒(町方書上)。
町名の由来は、馬頭観世音像を納めた駒形堂によるが、堂名の謂れには3説ある。第1は隅田川の上からは堂の形が馬(白駒)が駆けているように見えるので、「駒がけ」が「駒がた」に転訛した(江戸名所記)。第2は観音様へ寄進の絵馬を掛けたので「駒掛け堂」といっていたのが、「駒がた」に転訛(燕石雑誌)。第3は駒形神を相州箱根山から勧請した御堂であるから(地名辞書)とする説がある。
なお、駒形堂は現・雷門二丁目、ちょうど駒形橋西詰北側に現存している。関東大震災により駒形橋西詰南側にあったものが移された。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年頃、浅草八軒町、清水稲荷屋敷を合併。同年の戸数215・人口1,231(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一部は寿町三丁目に編入。隣接の諏訪町、三間町、新猿屋町の一部を併せ、駒形一・二丁目となる。なお、無番地は雷門一丁目となる。再編後の駒形は一・二丁目で構成されていた。一丁目はそれまでの諏訪町、黒船町、新猿屋町、二丁目はそれまでの駒形町、三間町。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、それまでの南の一丁目、北の二丁目ではなく、江戸通りを挟んで町域を再編。浅草駒形一丁目は東部は駒形二丁目に、西部は駒形一丁目に、浅草駒形二丁目も東部は駒形二丁目に、西部は駒形一丁目に編入された。
撮影場所:浅草駒形町
撮影地:台東区雷門二丁目2番(駒形堂)
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