【浅草①065】浅草花川戸町

町番号:浅草①065

町名:浅草花川戸町

読み方:あさくさはなかわどちょう Asakusa-Hanakawadochō

区分:町丁

起立:1868(明治元)年頃

廃止:存続 「花川戸」として

冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1965(昭和40)年7月31日まで「浅草」

現町名:台東区浅草一・二丁目、花川戸一・二丁目(入会地だった地域は除く)

概要:この地は早くから町屋が開けていた。起立年代は不詳だが、『寛永江戸図』には奥州街道にメ面して、「八十川戸丁」の記載があり、承応年間(1652~1655年)の頃には既に浅草寺領として奥州街道沿いに商家が建っていた。町名の由来ははっきりしないが、地名由来説の1つとして、川や海に臨む地には「戸」を付けることが多い。花川戸も隅田川に臨んでいたことに因んだのであろう。「花川」は並木桜或いは対岸の墨堤に咲く桜等、桜の花と隅田川を結び付けてこの名が付されたと考えられる。化成期(1804~1830年)の家数520軒、町内小名には戸沢長屋、大長屋、菱屋長屋がある(町方書上、備考)。東側の隅田川岸は通称「浅草河岸」といい、浅草寺への年貢物資の陸揚地で、屋敷付河岸地は商品置場。南方の木戸際には六地蔵があり、その他町内には寿司屋、蕎麦屋、料理屋があった。本所へ渡る大川橋(吾妻橋)は1774(安永3)年架橋(画報)。

起立が慶応4年=明治元年である場合、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。年代不詳だが、大川橋西助成地を合併。1872(明治5)年の戸数505・人口2,071(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。明治30年代の町内は草履、鼻緒、爪掛等の問屋が多かった(画報)。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、整理統合されて花川戸一・二丁目が誕生。一丁目は当町の大部分、馬道町四丁目の東半分、馬道町六丁目南側一部、山ノ宿町南隅の各一部からなり、二丁目は馬道町六丁目の東半分、山ノ宿町の大部分、猿若町一丁目南側の一部からなる。逆に一部は雷門二丁目、馬道一丁目に編入となる。

1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1965(昭和40)年8月1日、住居表示の実施により、一丁目と浅草馬道一丁目、浅草隅田公園が花川戸一丁目に、二丁目と浅草馬道一丁目、浅草隅田公園が花川戸二丁目に再編される。


なお、そもそもの「花川戸」について以下に詳述する。

隅田川西岸に位置し、地名の由来は「桜並木のある川端通」の意とも、「端川津」の転訛ともいう(画報)。歌舞伎十八番「助六」所縁の地名として今も親しまれているが、黒羽二重に杏葉牡丹の五ツ絞、紺の蛇の目に紫縮緬の鉢巻という粋な伊達姿は、1713(正徳3)年の初演、2世市川団十郎の当たり芸であった。

撮影場所:浅草花川戸町

撮影地:台東区花川戸一丁目4番1号(松屋浅草 東武鉄道浅草駅)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。