【浅草①085】新吉原五十間町

町番号:浅草①085

町名:新吉原五十間町

読み方:しんよしわらごじっけんちょう Shin-Yoshiwara-Gojikkenchō

区分:町丁

起立:1873(明治6)年

廃止:1941(昭和16)年

冠称:「新吉原」

現町名:台東区千束四丁目

概要:日本堤から吉原大門に至る通りの両側。江戸市中から新吉原へ向かうには、いったん日本堤に出て廓へ入った。裕福な者は舟、駕籠、馬を用いたが、一般の人は主に徒歩で通っていた。日本堤から唯一の出入口である大門までは「五十間道」(約100m)と言われ、起立前までもそう通称されていた。五十間道はわざと道が三曲がりに曲げられて造られていたが、それは将軍が鷹狩に御成のとき、日本堤から大門が見えては畏れ多いとあっての配慮だと伝えられる。衣紋坂は遊客の衣紋を直す所、見返り柳は逆に吉原から帰る客が、名残り惜しさにここまで来て見返る所だと言われている。「衣紋坂たびたび下りて左前」という川柳も残されている。なお、大門はペガサスマンション(台東区千束四丁目15番9号)と道を挟んでその対面に建てられていた。したがって当町は厳密に言えば廓外である。『吉原七不思議』に「大門あれど玄関なし」がある。起立前の1872(明治5)年の戸数32・人口273(府志料)。

1873(明治6)年、起立。大半が引手茶屋で、町名由来の一説に両側にあった引手茶屋がそれぞれ25軒、合わせて50軒、それが町名の起こりともいうが、「あみ笠茶や(引手茶屋の通称)というは、大門の外五十間道の内、左右に十軒ずつ廿軒あまり」(吉原大全)とあるから、後世の付会であろう。『吉原七不思議』に「茶屋あれど茶は売らず」がある。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。

帝都復興計画の一環により、1936(昭和11)年に南側が日本堤二丁目に、1941(昭和16)年には北側が日本堤三丁目の各一部に編入となり消滅。現行の千束四丁目。

撮影場所:新吉原五十間町

撮影地:台東区千束四丁目36番1号(吉原もん)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。