【浅草①090】浅草千束町
町番号:浅草①090
町名:浅草千束町 一~三丁目
読み方:あさくさせんぞくまち Asakusa-Senzokumachi
区分:町丁
起立:1891(明治24)年
廃止:存続 「千束」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1966(昭和41)年9月30日まで「浅草」
現町名:台東区千束一~三丁目、浅草二~五丁目、西浅草三丁目
概要:「千束」の地名は大変古くからあり、室町時代初期からこの辺り一帯を「千束郷」と称していた。そしていつの頃からか村になった。江戸時代には、既に千束村として文献に登場する。当時の村域は、石浜、金杉まで及んでいたという。1889(明治22)年5月1日、東京に市制が施行されたのに伴い、千束村は浅草区に合併された。次いで1891(明治24)年、千束村字新田、坂本村字向田の一部と飛地が一丁目、千束村字槐戸(さいかちど)、施無畏裏(せむいうら)、梅ヶ枝、浅間下が二・三丁目となって成立。
町名は、地名の「千束」に因んで命名されたという。「千束」という地名の由来は、一般に「稲千束」に因むといわれている。この地が古くから田地であったため、稲千束や千束分の稲田等、田や稲に結びつけて付されたものと考えられている。また、千束分の稲田を寺領としたことに起こったとも、千僧供の転訛ともいわれる(地名辞書)。
なお、浅草千束二丁目には、明治・大正の東京人に親しまれた凌雲閣(通称「十二階」)をはじめ、料理屋、貸席、芸妓屋、待合、銘酒屋(通称「十二階下の私娼街」)、楊弓場、新聞縦覧所、宮戸座(1896(明治29)年開場)等で賑わい、三丁目には「浅草のお富士さん」の通称で親しまれた浅間神社があった(浅草五丁目に現存)。
帝都復興計画の一環により、1934(昭和9)年に二丁目の一部が象潟一丁目の一部に、三丁目の一部が馬道三丁目、象潟三丁目の各一部に、1936(昭和11)年には一丁目の一部が芝崎町三丁目、三丁目の一部が日本堤一丁目の一部に編入となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。その際、一丁目の北側一部を千束町一丁目として下谷区に移した。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
住居表示の実施により、1965(昭和40)年8月1日に、浅草千束町二丁目の一部が浅草二丁目の一部に編入となり、浅草新谷町、浅草千束町一丁目を千束一丁目に、龍泉寺町、千束町一丁目、光月町、浅草千束町一丁目を千束二丁目に、1966(昭和41)年10月1日には、浅草千束町二丁目の一部が浅草三丁目の一部に、浅草千束町一・二丁目の各一部が浅草四丁目の一部に、浅草千束町二・三丁目の各一部が浅草五丁目の一部に編入となり、浅草千束町一・二丁目、龍泉寺町、浅草新吉原京町一・二丁目の各一部を千束三丁目に、浅草新吉原江戸町一・二丁目の全部、浅草新吉原揚屋町の全部、浅草新吉原角町の全部、浅草新吉原京町一・二丁目、浅草日本堤二・三丁目の各一部を千束四丁目に再編。
なお、そもそもの「千束」について以下に詳述する。
「千束郷」は鎌倉~戦国期に見える郷村名。豊島郡のうち。1315(正和4)年7月8日、『北条随時奉書』に「武蔵国千束郷田在家之事」とあり、江戸弥太郎が千束郷を抑留したのを重通が訴えたのに対し、幕府が弥太郎に出府を命じている(国会図書館所蔵文書)。南北朝期には江戸氏の惣領、或いは惣領家に近い一族が領有していた。1346(貞和2)年3月20日、『左衛門尉経祐施行状案』(武文)には「当国千束郷内田畑屋敷之事」と見え、千束郷をめぐる江戸氏の内紛が続いており、1347(貞和3)年によってようやく決着した(江戸氏の研究)。1346(貞和2)年9月8日の『鎌倉公方(足利義詮)御教書』にある石浜・墨田波(すんだば)、鳥越の3ヶ村は同じ内容を扱っていることからみて、千束郷のうちであったと思われる。また、金龍山浅草寺の所在地も千束郷内であったことが1387(至徳4)年の『浅草寺銅鐘銘』(新編武蔵)に「日本国武州豊嶋郡千束郷金龍山浅草寺洪鐘銘并序」と見えることから判る。また、1418(応永25)年12月13日付の古河公方足利持氏寄進状に武蔵国豊嶋郡千束郷の鳥越村、浅草村等の内の田畠・在家を武州西雲寺に寄進したとある(神田孝平氏旧蔵文書/神奈川県史)。戦国期には『役帳』に島津弥七郎27貫700文「江戸千束之内近藤分」、飯倉弾正忠11貫280文「千束内金杉分」、太田大膳亮衆6貫685文「千束石浜惣領分」、同衆29貫文「千束南原」、太田新六郎6貫200文「千束内3戸分」、15貫400文「千束石浜土屋分」、16貫290文「千束内阿佐谷同人分」、江戸番匠4貫290文「千束内朝倉分」と見える。江戸期の浅草・下谷の一帯にあたる。
「千束村」とは、豊島郡峡田領のうち、浅草寺領。室町初期には「千束郷」と称した地。1685(貞享2)年6月11日の浅草寺朱印文書に「武蔵国豊島郡千束村五百石」と見える(台東区史)。当村は早くから町場化が進み、浅草山之宿町、浅草花川戸町、浅草材木町の在方分を「内千束」、日本堤外の浅草橋場町、浅草今戸町、下谷三ノ輪町、浅草山谷町の在方分を「外千束」といった(東京近郊名所図会)。『田園簿』、『元禄郷帳』には村名の記載はなく、『天保郷帳』には嘗ては浅草山之宿町として「千束村五百石」とある。『旧高旧領』では346石余。1869(明治2)~1874(明治7)年、内千束は「千束村」、外千束は「千束村百姓地」と改称(案内、画報、府志料)。1872(明治5)年の戸数139・人口609(府志料)。1868(明治元)年、東京府に所属。
1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1889(明治22)年5月1日、字大門脇耕地、西脇地の水路以北が北豊島郡南千住町と下谷区に、残余は浅草区にそれぞれ編入された。1891(明治24)年までに浅草千束町一~三丁目及び南千住町大字下谷龍泉寺町の一部となる。また千束村百姓地は1891(明治24)年、浅草町、浅草田中町に分割編入され消滅。
撮影場所:浅草千束町二丁目
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