【本所①015】本所吉田町

町番号:本所①015

町名:本所吉田町

読み方:ほんじょよしだちょう Honjo-Yoshidachō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1929(昭和4)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区石原四丁目

概要:寛永年間(1624~1645年)に神田小川町近辺の松本町が上地となり、寛文年間(1661~1673年)に本所相生町五丁目に代地を与えられ、さらに1693(元禄6)年、横川通り西側に移り、「本所吉田町」と改称し、その後、一・二丁目に分けられた。町名は古くより当地の諸事を管理していた吉田屋某の名による。寛文年間(1661~1673年)頃から始まったといわれる草花の市は毎年7月13日朝六つ時より四つ時頃まで、町内の往還で開かれた(備考)。

江戸時代末期、法恩寺橋の西の両側50m程の当町は夜鷹の巣窟として有名だった。そんな老夜鷹の様子は、“本所から出る振袖は賀を祝い”、“四十から老いに入らぬ吉田町”、“霜天にいただき二十四文とり”と、当時の川柳に残る。また、鶴屋南北の『四谷怪談』の序幕、宅悦が表向き「灸治」として経営した売春宿は本所吉田町の私娼がモチーフにされていたようだ。 こうした最下級の私娼は多く梅毒を持ち、罹患すると鼻が欠けることを揶揄して「花散里は吉田町鮫河橋」と詠まれている。他に、「吉田町稼ぎをカカア鼻にかけ」、 「材木の間に落とす鼻柱」などが詠まれ、とにかく有名な岡場所であった。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、一・二丁目を合併して1町とした。1872(明治5)年の戸数188・人口644(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。

1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環により、石原町四丁目に編入となり消滅。現行の石原四丁目。

撮影場所:本所吉田町

撮影地:墨田区石原四丁目26番1号(錦糸町政寿司)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。