【本所①028】本所石原町

町番号:本所①028

町名:本所石原町

読み方:ほんじょいしわらちょう Honjo-Ishiwarachō

区分:町丁

起立:1878(明治11)年11月2日

廃止:存続 「石原」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区石原一・二丁目、横網二丁目、本所一丁目

概要:古くは南本所村のうち。1878(明治11)年11月1日までは南本所石原町。1660(万治3)年、上野館林藩の蔵屋敷が置かれ、切米運送船や諸商売人等が出入りし、家数が増加した。蔵屋敷は町内の北方にあり、俗に「弁天小路」といった。1684(貞享元)年、蔵屋敷が取り払われたが入堀等はそのままにされ、貞享年中(1684~1687年)に埋め立てて町屋にし、俗に「埋堀片町」という。1690(元禄3)年、土手跡を町屋とし圦堀留り字築留圦樋より南方を、俗に「原」といった。1695(元禄8)年、2ヶ所とも高入になり、年貢上納する。

1704(宝永元)年、家作御免また町内入堀通りの南側、大久保加賀守抱屋敷、町人所持の地面を町人が買い請け所持。西南の方の大川端は1689(元禄2)年に御用地となり、黒田豊前守下屋敷に渡された。1709(宝永6)年、深川森下町続きに代地を置く。1715(正徳5)年、同所を深川伊沢町続きに代地を移し、2ヶ所とも南町内に入る。年貢は西本所町に上納。また同所の松浦大和守屋敷地も同様に以前町屋であったのが用地として召し上げられ、1704(宝永元)年頃、本所法恩寺東続きに代地を置き、南本所出村の内に入る。残地は深川扇橋町続きに代地を置き、南本所扇橋代地町と唱える。同町の南方、杉浦健次郎屋敷の所も古来町屋であったのを元禄年中(1688~1704年)に用地となり、深川蛤町続きに代地を置き、南本所石原代地町と唱える。また1698(元禄11)年に用地となり、翌年拾間川通りに代地が置かれる。1707(宝永4)年、八右衛門新田続きに引替地となり、百姓地となる。1713(正徳3)年、町奉行・代官所両支配を受けるようになる(備考)。町名は隅田川沿いで砂礫の地であったため、「石原」と呼ばれた(画報)。1828(文正11)年の家数479(町方書上)。

前身の南本所石原町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数503・人口1,941。物産に籐下駄表・濁酒があった(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。その際、「本所石原町」と改称。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。

帝都復興計画の一環により、1929(昭和4)年に一部を横網、厩橋一丁目に編入。1929(昭和4)~1930(昭和5)年にかけて、もとの石原町に亀沢町二丁目の北部、北二葉町の一部、外手町の極一部を編入して一丁目に、もとの石原町に北二葉町の一部、若宮町の一部を編入して二丁目に、北二葉町の一部、若宮町の一部、吉岡町の全部を編入して三丁目に、吉田町の全部、長岡町の一部、清水町の一部、横川町の一部を編入して四丁目に再編。

1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、石原町一~四丁目が石原一~四丁目となる。明治期の当町は現行の石原一・二丁目、横網二丁目、本所一丁目のうち。

撮影場所:本所石原町

撮影地:墨田区石原一丁目36番10号(徳之山稲荷神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。