【神田①067】小川町

町番号:神田①067

町名:小川町

読み方:おがわまち Ogawamachi

区分:俗称→町丁

起立:1693(元禄6)年9月11日(1693(元禄6)年5月とも)

廃止:存続

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「神田」

現町名:千代田区神田小川町一~三丁目

概要:江戸期は駿河台南側の大名・旗本等の武家地の汎称として用いられ、切絵図にも『飯田町 駿河台 小川町絵図』と題して、一帯の武家屋敷を記している。もと鷹匠が集住していたので「鷹匠町」、「元鷹匠町」と称していたが、1693(元禄6)年の生類憐みの令が発令されたことで鷹狩が禁止され、1693(元禄6)年9月11日に「小川町」と改称(東都紀行)。なお、『武江年表』では、「元禄六年五月 鷹匠町を小川町、小石川餌差町()を富坂町()と改めらる」とある。

「小川」とは、内藤大和守邸内の池「神田が淵」の別名「小川の清水」に因むとも(画報)、天正年間(ユリウス暦1573~グレゴリオ暦1593年)に2筋の小川があったことによるとも(江戸名所)いう。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいる。

江戸初期、小身の旗本衆の屋敷地であったことから当地を「錦の切」とも俗称した。幕末の一時期、越後長岡藩牧野氏上屋敷跡に講武所(後に「陸軍所」と改称)、常陸土浦藩土屋氏上屋敷跡に歩兵屯所が置かれ、歩兵屯所ではオランダ人に混じって永井玄蕃や勝海舟が洋式調練を行った。

江戸後期になると、1856(安政3)年の絵図にも見られるとおり、この界隈には旗本で寄合の近藤左京、同じく旗本で寄合の津田英次郎等の屋敷があった。1867(慶応3)年の頃には、武家地の他に雉子町四軒町といった町が見られ、職人の町として移り変わっていつた。

1869(明治2)年若しくは1872(明治5)年、土屋氏上屋敷、山城淀藩稲葉氏上屋敷等の武家地跡に正式に起立。同年の戸数170・人口654(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代の町内には東京物理学校、鳥海女学校、東京顕微鏡学院等の学校、山龍堂病院他の病院等があった(画報)。

1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、錦町一・二丁目、淡路町一丁目、表神保町、猿楽町一丁目、美土代町四丁目、雉子町の各一部を合併し、一~三丁目に改編。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。なおその日以降、「神田」を冠称するが、小川町町域は元は三崎村なので神田ではない。

撮影場所:小川町

撮影地:千代田区神田小川町二丁目4番地5号(杉商ビル)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿