【深川①084】深川上大島町

町番号:深川①084

町名:深川上大島町

読み方:ふかがわかみおおじまちょう Fukagawa-Kami-Ōjimachō

区分:町丁

起立:1657(明暦3)年

廃止:1934(昭和9)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」

現町名:江東区猿江二丁目

概要:葛飾郡西葛西領のうち。小名木川の北、十間川(横十間川)を挟んで東西に位置していた。もとは大島村のうちで、1657(明暦3)年に百姓商売屋が設けられた。宝永年間(1704~1710年)、永代売買、家作免許となり、1706(宝永3)年から、町奉行・代官両支配となる。町名は当町の住居者が大島村上分であったことによる。検地は1697(元禄10)年、反別は4町6反余(備考)。化政期(1804~1830年)の家数121軒(町方書上)。

八右衛門新田へ渡る渡船場があり、当町の弥兵衛が司っていたので「弥兵衛渡し」ともいわれた(備考)。横十間川の開削と釜屋六右衛門、七右衛門が助成したことから小名木川から竪川に至る横十間川を「釜屋堀」ともいった。六右衛門は近江栗太郡太田氏、七右衛門も同じ栗太郡田中氏の出で、寛永年間(1624~1645年)、江戸出府後、芝に居住したが後に大島村に移住。鍋釜、仏像、天水桶等を作った初代六右衛門は朝廷から「近江大掾」の号を与えられ、幕府御用を務めた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数110・人口542。物産に釜、鍋があった(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。同年、横十間川以東を南葛飾郡大島村に編入。1891(明治24)年、深川区深川猿江町、南葛飾郡猿江村字猿江の一部を編入し、一部を深川猿江町に編入。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、猿江町二丁目に編入となり消滅。

撮影場所:深川上大島町

撮影地:江東区猿江二丁目16番27号(小名木川・横十間川 小名木川クローバー橋北西詰 大和自動車交通江東)

←083深川猿江裏町 085深川古石場町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。