【深川①082】深川猿江町
町番号:深川①082
町名:深川猿江町
読み方:ふかがわさるえちょう Fukagawa-Saruechō
区分:町丁
起立:1657(明暦3)年
廃止:存続 「猿江」として
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1968(昭和43)年11月30日まで「深川」
現町名:江東区猿江一・二丁目
概要:切絵図では小名木川の北側5ヶ所に記されている。もとは猿江村のうち。1657(明暦3)年に百姓商家が開かれ、次第に町場化され、元禄年間(1688~1704年)に町奉行支配となり、1706(宝永3)年に改めて土地売買、家作免許となった。
町名の由来は、康平年間(1058~1064年)、『源義家臣猿藤太』と記した鎧を身に着けた溺死体が村の入江に流れ着いたことによる、というのが定説。猿江神社はその遺体を埋めた猿塚(猿江塚)に建てられたという。また、新しく埋立造成したので「新江(さらえ)」といい、それが「さるえ」に転訛したしたと考える説もある。また、「ざる江」という説もある。「ざる」は「ざれ」で「川岸の崩れるところ=軟弱地」の意だという。「去る・江」というのも同じで似たような語源。この辺りの土地がまだまだ安定してなかった頃の状況をいったものだろう。
検地は1732(享保17)年、石高は5石余で猿江村に含まれていた。小名木川に架かる猿江橋の南に舟番所があった。また、一部が収公され、亥の堀川(大横川)西岸に代地を与えられた(備考)。化政期の家数108軒・代地の家数3軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、深川猿江町代地は深川扇橋町二丁目に編入となる。1871(明治4)年、小名木川北岸の当町に下総古河藩土井大炊頭、上野沼田藩土岐安房守等の武家地、浄土宗不虚山重源寺、日蓮宗本覚山妙寿寺等の寺地を合併。1872(明治5)年の戸数111・人口512(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。「小名木川通り五本松」と俗称された。小名木川沿いには川口染工場、安田製釘所、鈴木セメント会社等の工場が建ち並んでいた。1891(明治24)年、南葛飾郡猿江村字猿江、深川区深川猿江裏町と同区深川上大島町の一部を編入し、一部を深川上大島町に編入。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、上大島町、猿江裏町、東町、本村町の一部を編入して猿江町一・二丁目とし、町域が確定。1968(昭和43)年12月1日、住居表示の実施により、現行の猿江一・二丁目となる。
撮影場所:深川猿江町
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