【南豊島】青山原宿町

町名:青山原宿町

読み方:あおやまはらじゅくまち Aoyama-Harajukumachi

区分:町丁→大字→町丁

起立:1738(元文3)年

廃止:1965(昭和40)年2月28日

冠称:1872(明治5)年まで「青山」

現町名:渋谷区神宮前三丁目、港区北青山三丁目1番

概要:「原宿町。当所は古へ相模国鎌倉より奥州筋の往還係て宿駅を置し所故此の名ありと、また村内竜岩寺の伝に、往昔源義家奥州下向の時、渋谷城に滞溜し当所にて軍勢着到せし故、今に門前の坂を勢揃坂と唱ふと云、当時街道なりし事証すへし、村の東青山五十人町の通衛は今も相模国矢倉沢に達する往還なり」(新編武蔵風土記稿)。

昔は「豊島郡原宿」といい、鎌倉から奥州への街道の宿駅になっていたという。1591(天正19)年に伊賀の者一同に大縄地として支給されたのが起源であるが、村方の百姓町屋として成立した年月は不明。1738(元文3)年から町奉行支配となり、村名をそのまま町名とし、「青山原宿町」と唱えた。1827(文政10)年の総家数146軒、うち地主3・家主9・地借9・店借96・空家29(町方書上)。原宿村の中でも伊賀者に支給された地域は「原宿村伊賀者上知」といったようだ。なお、原宿村には後に青山南町となった長者ヶ丸の近隣に原宿村と町地化した当町の飛地が存在した。

『東都青山繪圖』では青山緑町の南にハッキリと存在するが、『青山長者丸辺図』では当町の位置にも「青山緑町」と書かれている。これがWikipediaに「青山原宿町 - 青山緑町とも」と書かれている由縁か。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。

現・港区側は、1872(明治5)年、南端の極一部分と青山久保町の一部及び武家地が合併し、青山北町五丁目に編入となり消滅。現行の北青山三丁目1番の一画から北の渋谷区へかけての辺り(港区沿革図集)。なお、青山久保町は全部で8区画あったというが、『青山長者丸辺図』で見てもそれは全て青山北町四丁目町域にある。

『大東京町名沿革巻2第2巻』の青山北町五丁目に「原宿久保町、熊野横町細道」とある。しかし「原宿久保町」とは青山久保町のことかと思われる。なお、熊野横町細道は青山北町四丁目にある。また、『御府内備考』に「町内里俗之儀者町方ヲ昔者南原宿町と唱村方ヲ北原宿村と唱候由申し伝ニ御座候」とある。青山原宿町(赤坂②)も参照のこと。

大部分を占める現・渋谷区側は、1872(明治5)年、 東京府豊島郡原宿村に所属。1878(明治11)年11月2日、東京府南豊島郡原宿村所属。1889(明治22)年5月1日、東京府南豊島郡千駄ヶ谷村大字原宿字南原宿。1896(明治29)年4月1日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿字南原宿。1907(明治40)年4月1日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字原宿字南原宿。1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市渋谷区原宿一丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都渋谷区原宿一丁目となる。1965(昭和40)年3月1日、住居表示の実施により、原宿一丁目は神宮前二・三丁目に編入となり、当地域は三丁目に編入となり消滅。

原宿団地北交差点は、2018(平成30)年2月4日に確認したところ、交差点名が「原宿幼稚園前」に変更になっていた。

撮影場所:青山原宿町

撮影地:渋谷区神宮前三丁目1番23号(ワールド・ブレックファスト・オールデイ)

青山緑町 南原宿町


◉感謝

以前、Wikipediaには「元々江戸期には「青山原宿村」と呼称されるなど、隣接する青山地区との関連は深かったが、1738年に町並が立ち並んだ箇所に青山原宿町と青山久保町が起立した。ただし、これは1872年に青山北町五丁目に組み入れられ、現在は港区北青山三丁目になっている」とあったが、後に「1889年5月1日に字竹ノ下の一部が赤坂区に編入された。また、原宿村には飛地が存在し、青山墓地下の笄川沿いに字五反田が存在していたが、同じ1889年5月1日に北半分が赤坂区に編入された。1891年に編入された地域も含めそれぞれ青山南町五丁目(現・港区南青山四丁目)に編入された。時代は下って1966年の住居表示実施の際にも原宿一丁目の一部(東京都立青山高等学校の周辺)が港区北青山二丁目にそれぞれ編入されている」と追記されていた。Wikipediaの編集者様、有難うございました。

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。