【赤坂②】青山久保町
町名:青山久保町
読み方:あおやまくぼちょう Aoyama-Kubochō
区分:町丁
起立:1591(天正19)年
廃止:1872(明治5)年
冠称:「青山」
後身:青山北町四・五丁目
現町名:港区北青山二丁目7・8番と9、12番の間の道路両側や10番の西南側等、新宿区霞ヶ丘町3番地最南端
概要:豊島郡原宿村の一部を1591(天正19)年に伊賀衆へ大縄地で支給された。名主佐太郎他1名の先祖が、荏原郡世田ケ谷村字久保から移住したため、この土地の名となった。のち代官支配の百姓町屋となり、1738(元文3)年から町奉行支配に入って町名を継承。1827(文政10)年の総家数401軒、うち家持19・家主29・地借18・店借252・空家83(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、武家地・寺地を加え、青山北町四丁目と五丁目に編入となり消滅。江戸期を通じ、現行の北青山二丁目のうちで中央の7・8番と9・12番の間の道路両側や10番の西南側等の8区画に分散していた。町内や付近武家地に久保表町、久保片町(東都歳時記)、久保横町(尾張屋版切絵図)、熊野横丁(御熊野横丁(町方書上・画報))の俗称があった。
青山久保町(南豊島)も参照のこと。
撮影場所:青山久保町
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