【北豊島】上宿

町名:上宿

読み方:かみじゅく又はかみしゅく Kami-Juku or Kami-Shuku

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1872(明治5)年

冠称:なし

現町名:板橋区弥生町

概要:上板橋宿は石神井川の下頭橋(げとうばし/げどばし)東詰まで。当然、上宿もそこまでとなる。が、石神井川は改修工事を行ったため、下頭橋が架かっていた位置は現在よりやや東寄りだったと思われる。

なお、現在の橋東詰北側には下頭橋六蔵尊が祀られている。六蔵なる人物が残した大金で石橋が架けられたことから、その徳を讃えて六蔵祠が建てられた。下頭橋はこの辺りで珍しく擬宝珠が載せられている。嘗ては木橋だったが、1798(寛政10)年に六蔵の金で石橋が架けられた。以来、水難事故が無くなったとか。

「下頭」の由来は幾つかあり、その1つが『川越城主が江戸に出府の際、家臣が頭を下げて出迎えたから』という説が有力。なお、有名な下頭橋ラーメンが至近にあったが、現在は移転している。

撮影場所:上宿

撮影地:板橋区弥生町59番8号(エコロパーク中板橋第2)

中宿 千住町組小塚原町



上板橋宿の先はどこまでが江戸の範囲なのか?それは東武東上線の上板橋駅を越え、中台村、西台村、下練馬村に囲まれるようにして突き出た上板橋村の突端まで。それはどこにあるかというと、ときわ通りの、ARCウイングオクムラ(練馬区北町一丁目41番22号)というバイク屋さんが近くにある名無しの交差点。そこに朱引があった。


↓ 参考:ARCウイングオクムラ付近から東武東上線の踏切

↓ 参考:ARCウイングオクムラ付近からときわ通り

↓ 参考:ときわ通りに出て江戸内方面


↓ 参考:ときわ通りに出て江戸外方面

↓ 参考:中台村との境(板橋区若木一丁目27番1号(パークエステート上板橋))の南側の道


◆なぜ板橋辺りの朱引が出張っているのか

ヤフー知恵袋に「なぜ板橋辺りの朱引が出張っているのか」という質問について、回答者の中に「『ビバ!江戸』というサイトに掲載されている地図が誤っているから」と指摘した方がいる。

『ビバ!江戸』に掲載されている地図とは、朱引・墨引を現代地図に落としたもので大変見やすいものである。見ればたしかに「東武東上線の上板橋駅付近だけが奇妙に外側に飛び出して」いる。

その方の論は『江戸朱引図』にしたがっており、①石神井川以西は朱引内ではない、②何故なら上板橋村は石神井川以東の中板橋駅付近までだからだ、③つまり『ビバ!江戸』の地図は作り間違いであり、④この間違いがなければ板橋辺りの奇妙な出張りは存在しない、ということである。

たしかに『江戸朱引図』を見ると、「上板橋村」の先には石神井川が流れており、その右岸側には「下板橋村」も揃っている。しかしそうなると、下板橋宿は仲宿までが江戸内で、上宿は江戸外となってしまうがどうだろう。

逆に『江戸朱引図』が間違っているという可能性の方が高いと考えられないか。つまり、下頭橋東詰で終わるのは上板橋宿であって、上板橋村という村はそこでは終わらない。つまり朱引は、下頭橋東詰までではなく、西詰以西のどこかまで出張るのである。

それはどこかというと…、少し説明しにくいので、下頭橋を渡らずに中板橋駅から東武東上線に乗る→2つ先の上板橋駅で下車→北口の先にあるときわ通りに出たら左折→ひらすら道なりに進む→左にアネシス上板橋(板橋区上板橋三丁目27番8号)というマンションが建つ名無しの交差点まで移動。その交差点こそが、上板橋村の最北端・最西端であり、奇妙な出張りの正体なのである。


つまり「板橋辺りの朱引が出張っている」理由は、「そこまでが上板橋村だから」と答えるほかはないようだ。


回答者は「現在の東上線上板橋駅付近は、石神井川を渡った先、江戸から見て前野村より奥に位置するため、上板橋村の内ではない」と説明している。恐らく「上板橋村=上板橋宿」と考えているのだろう。「『江戸朱引図』を信じれば、そう思うのが当然だろう」と当サイト管理人も強く思う。

なお、前野村は下板橋宿上宿の北辺りから西へ、現・富士見街道を南端にして、板橋区前野町六丁目10番(前野町ハイツ)まで広がる。ちなみに富士見街道の南側は、現・板橋区常盤台一丁目37番辺りまでは下板橋村、そこから西は前出の名無しの交差点まで上板橋村である。


ここに画像はアップしないが、『ビバ!江戸』の朱引・墨引は、『大江戸今昔めぐり』のそれと殆ど同一であることを確認した。したがって、このサイトでは『ビバ!江戸』に載っている地図を信じることにした。勿論、『大江戸今昔めぐり』制作者が『ビバ!江戸』を参考にしていたとしたらおかしな話になるが…。


なお、江戸の範囲、言葉では「東は中川限り、西は神田上水限り、南は南品川町を含む目黒川辺、北は荒川・石神井川下流限り」とされたが、『江戸朱引図』では目黒川左岸側の現・中目黒一丁目や現・上目黒一丁目、現・青葉台一丁目等々が朱引外のように見える。しかし、目黒川左岸にあった当地は中・上目黒村の入会地であったから、当然にして朱引内であろうと思われる(河川改修前はかなり蛇行していたので厳密には現在の右岸側の一部も江戸内であっただろう)。これを考えれば、下板橋宿の本件についても『江戸朱引図』の方が間違っていたという可能性も捨て切れない。



江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。